「自」の付く言葉
同僚に誘われて、小雨の中テラス喫茶でお茶をする。「Virture」(内発)と「自発」との違いについて、初めて知ったことを告白していると、かれは「そうなんだ!、明治維新以来、「自」にこだわり過ぎた教育が、結局は世の中を悪くしてしまったんだ。」というかれの社会批判が再演してしまった。わたしなどは、「自由・自立・自主」こそ信条にしてきていたので、「自発」こそは肯定されるべき言葉だったんだが、そこには、「打算、利害、損得」があると言われてぐらっとしてしまったことを言うが、かれは、そんなことわかりきったことではないかと言う顔をしている。自分の頭の悪さにうんざりもするが、ただ一つ、当の本人が、それだけ分かっていながら、「生きること=なにかやることにある」の公式の外にい虚無教務的にアナーキーで老荘思想の中に住んでいることが不思議に思う。「内から湧き出る力」に、「自」の意識が一杯で、気づかないのでいるのも問題だが、何か行動を起こしてこそ、人と未来に向かってこそ、「魂」が輝くのだ、ということに気づいているわたしは、そんなに頭が悪くないのだとも思い返す。