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「老衰」で死にたくない


 先日、急に暑くなった尼崎の商店街で、クラっとして、倒れそうになる。幸い食欲はあり、例の高血圧のせいかもしれないと、思っているうちに元気が回復したので、ひとまずホッとする。しかし、もしかしたら、こうしてわが生も終焉を迎えるのではないか、それも仕方ないか、という寂しい感慨が沸いたのも事実だった。
 そうしたら、今日読んだ、下重曉子さんの『怖い日本語』に、「老衰」で死にたくない、という箇所があり、考えさせられてしまった。折から今日、70歳くらいの知人の死(食道がんで5/2に死んでいた)をラインで受け取ったので、余計に考えてしまった。下重さんによれば、大江健三郎も山田太一も永井路子も、みんな「老衰」による死と報道されたらしい。生前活躍していた人ほどそうであるらしい。病気では「穏やかな死」にならないからか。ついでに「心不全」も、死をきちんと伝えていないと言う。彼女も、知人のように病名を表示してほしいとのこと。
 「老いて」「衰えて」死ぬことが当然とは、わたしも思えない。老いたら衰えるのが当然なのか。老いてますます盛んということもあるではないか。年取れば年取るほど豊かになるのだ、とイダキシン先生もおっしゃっていた。活動の最中にパタンと死にたいものである。教壇で死にたいと、いつも言い、生徒にあきれられている。
 じゃあ、元気で活躍していたら、死は遠いのか。まさかそんなバカは思わない。このところ、「すごい活躍!」「最高の生き方!」とほめてくれる手紙が続いたが、それは当方の82歳という年齢を踏まえての献辞のようにも思えて、あまりうれしくない。褒めてないで一緒に行動しませんか、と言いたい。いつ何時、「死」は来るかもしれない。でも、それは「老衰」のせいであってほしくない。「もう死んでも仕方ないか」という諦観にならないように、この文章を書いてみた。高い米が買えなくて「餓死」するのならまだしも。それは「老衰」ではなかろう。5/21

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