「深奥」を見つめて
「深奥」を見つめて
「元旦」だ、「初詣」だ、と言っても、所詮、人間の勝手な宇宙や自然の解釈に過ぎない、「言葉」を使っての思い込みに過ぎない。ああ、この「意識」が邪魔だ、と思いながら、元旦は、金剛山の急坂を登っていた。いろんな心配や懸念や自慢が、わたしを重くして、あまり良い気分ではなかった。なんで、こんなことを恒例にして、「確かな人生」などと思い込もうとしているのか、と悩ましくもあった。
ところが、アイゼンを装着して、雪の道を登り、山上に達すると、葛木神社に着くと、まるで雲の向こうに突き出たみたいに、晴れやかで、明るい気分になったのだった。ここにいることがうれしかった。もう「言葉」がいない! 雪化粧のブナ林の向こうに、奈良盆地が見え、飛鳥の里が広がっている。ほんとうに汚れない青空が宇宙の奥の方まで広がっている。やはり来て良かった! いま、この爽やかさとうれしさこそが生きる喜びという気がした。
昨日、「いだき」のイベント(「縄文の精」「高句麗伝説2021.5.13.」「高麗恵子・魂の語り」)でも、それこそ、「精」と出会え、「心の自然」に巡り会えた。申し訳ないが、詩の言葉より、その意味より、高麗先生の声と響きに感化され続けていた。休憩のとき、近くの席の女性が、「もうわたしは変わったの!」と知人と話しているのが耳に残った。ただ、わたしには、そういう意識もなかった。あまりうまい譬えではないが、洗濯機の中で心身ともに洗浄されている感じだった。だから結構大変だったのかも……。
その中で、一つ心に刺さった言葉が「深奥」だった。高麗先生が何度も繰り返し使われていた。「しんおう」?「しんのう」?なんて意識のレベルでは考えながら、言葉の奥深く、意識の果ての、さらに向こうの原初へ、心と一つの自然に旅しているのだと感じていたのだ。
人間関係の構築、体調の維持、金欠病対策、そして社会への働きかけなど、課題は山積されているが、どうも自分は言葉や意識があり過ぎなのだ。野口整体でいう、「上下型」で、エネルギーが頭に行き過ぎで、舞い上がり、落ち込みを繰り返してばかりいる。言葉が大好きだけれど、そして、言葉がないと、生きていけないけれど、その向こうの、深奥の「存在」の世界に遊ぶことも肝要だと、昨日はつくづく思った。今年一年よろしくお願いします。(1/3)