「没落」
「運命が良くなり、感受性が豊かになっても、魂を磨かないと」と高麗先生が書いておられたので、ちょっと心が癒される。つい、「随分頑張っているのに、ちっともよくならない、いくら話しても人はわかってくれない」と嘆きたくなってしまうのだが、それでも、どこか心の隅で、随分精神が強くなり、感受性も研ぎ澄まされてきたことを知っているものだから、実は落ち込まないで済み、すぐに立ち直れるので、ありがたいことだと、「いだき人生」を感謝している。それでも昨日高校生と読んだ『ツァラストラ』の最初で、「没落」がうまく説明できなくて困惑するくらいだから、ダメだなあと恥ずかしい。「ハイディガーも「頽落」ということを言ってるよ」などと煙に巻いてしまった。明後日の「存在論」で聞いてみようかとも。綱渡りの綱から転落した道化を愛するとは、どういうことか。「失敗してみてもいいんだ。超越の方向に進むことが大事なんだ。」くらいの解釈でいいのだろうか。
ただ、「没落」という言葉が嫌だけれど。何か太宰治のような気持ちになってしまいそうで。ともあれ、精進を続けなければと思う次第。
昨日も高血圧でふらふらしていたが、まり薬を飲まないでいるんだと言うと、医者の友人が、かわいそうなものを見るような顔して、「飲まなきゃダメです。」と言う。いつか先生もおっしゃっておられたが、少々薬を飲んでも大丈夫な体にしてやってるから、好きなようにしなさい、と。だから、一切薬は飲まないと決めたわけでもないのだが、先生のサウンドを聴き、コーヒを飲んでいれば、薬よりいいのではないかと思っている。ちょっと違う精進でいいではないか。