「母の声」
今まで、「言葉」と「音楽」とを別々に考え、「言葉では伝えきれぬからピアノを弾いたのだ。」と先生のことを理解していた。それはどうやら誤解だった。「言葉ではだめだから音楽なのだ。」ではなく、「言葉も音楽も人間存在の原点」であることに変わりないのだ。すぐに因果論的な解釈に走ってしまう愚かさよ。(先生、すみません。)ゲッセンマネの理解に関して、大沢真幸氏の論考を捜していて、講談社の無料配布の「本」6月号に、「原初の子守唄」という氏の寄稿があって、50万年前のハイデルベルク人の遺跡から、まずは「言語の前に当たるものによるコミュニケーション、つまり一種の音楽によるコミュニケーション」コミュニケーションが分かり、母子のコミュニケーションが音楽的性質を帯びていたことを語る。「音楽と言語の両方にとって、母子の間の音楽的コミュニケーションが少なくとも一つの源泉だった。」とも。「赤ちゃんが泣き、それに母親が、原初の子守唄とでも」みなすべき音楽的な声で応答する。」ーー「言葉」と「音楽」の原点は一つだったのだ!そしてそれらは生命と存在の源でもあったのだ。何か心の中が納まった感じ。
「母の声」
赤ちゃんへの子守唄こそは、音楽と言語の一つの源泉である
原初的な「母の声」こそは、存在と生命の同期をなすものである
(社会学者の大澤真幸さんがそう書いていた)
76歳にもなって「母の声」を思い出せない からと言って何も問題はないのかも
しかし、わたしは「母の声」を聴いて育ったんだろうか と思い悩んでしまうのだ
祖父の後妻とその姉妹の授乳によって大きくなったと とよく聞かされていたから
実母は育児に全く関心がなく、養子に入った実父と喧嘩ばかりしていた とも聞いた
一体だれの「声」に守られ、生存の危機を乗り越え、他者と話せるようになったのか
祖母とか乳母とか実母とか、そんな違いではない、温かさと優しさの原点はどこに?
きっと多くの「母の声」「子守唄」の中の「愛」を、いまだに追い求めているのかも