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「日本語の問題点」


「日本語の問題点」

 

雨が降ってきた。( ※ )わたしは外に出かけた。

 

※印に入る接続詞は、簡単に分かるだろうか。ふつうは、逆接の「しかし」や「けれど」が入ると考えるだろう。しかし、「だから」も入らないではない。「雨が降らなかったら、外に出かけなかった。」の意図なら、別に問題はない。でも、これを子どもに考えさせるのは、いかがなものだろうか。前文と後文の関係は、表面的にはわからない。接続詞があってこそ、話者ないし筆者の意図が伝わるのだから。だから、よく現代文問題の接続詞の穴埋め問題はやめるべきだと思う。いくら、論理を追い求める設問であろうと。

しかし、考えるということは、「思う」とは違って、継続的に、論理的に、あるいは意志的に、言葉をつないで、自分の心を構築していくことだから、どうしても接続詞が必要になろう。「思う」は、一時的に自分の情緒や感情を刷き出せばいいことだから、むしろ接続詞は不要だ。最近、会話で「なので」をよく使う人が多いが、あれは接続詞というより、間投助詞的な、「つなぎコトバ」でしかないと思う。ただ、日本語に接続詞が多くなるのは、近代以降のことである。古文には、接続助詞の「を」や「に」があって、順接か逆接かもはっきりせず、主語の変換に使われることが多い。そもそも古くは、日本人は西洋的な論理的思考をしていなかった。義理や人情の板挟みになって、論理と情緒の間でもがくばかりだった。どうやら「思い」の重なりが、「考え」の中身だったらしい。

最近流行語になった、「知らんけど」も逆説表現というより、文末につけて「婉曲表現」のつもりなのだ。「なので」が順接というより、発語的前置きであるように、「しかし」も会話の中では、拒否的な感情を表す「感動詞」的なものに近い。つまり、日本語には、接続詞はなじまないのかも。「論理力」を養いたい意図から、接続詞を補填する設問は考え物だ。

「思い」を重ねて、論理を構築する道は険しい。       (4/29)

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