「放っておく」傲慢さ
ひとは「ただ生きている」だけでいいのだろうか。会場でのやり取りを聞いていて、そんな思いがよぎった。心臓病のため、心身に負担を掛けないで、気ままに暮らすことのみの学生や、「発達障害」(?)のためか、全く「生きる意欲」を喪失してしまっている青年に対して、どう対応していくべきなのか。放っておくわけにもいくまいし……。すると、「その放っておけないという意識こそ配慮に欠けるものだよ。」と先生に言われて、ハッとした。何かが分かった瞬間だった。けれどそれをうまく言えないでもどかしい。「存在論」のメモを作っていても、なかなかうまくいかない。
*「止揚」の意味:前のことをことごとくなくしていく
*生きているということ:必ず芽が出て、良い方向に向かう
生きていてこそつぎの状態を創っていく(意識が強くなると命をもとってしまう)
⇌素のままの命を生きていない。(マズロー:自己実現)
その人の行動と言葉で生きる!
*大いなる存在に包まれるように生き!
*ヘーゲルの場合:「死」は停止・大地
国家と宗教とが、生きている状態がよくなる点で合体
*配慮:人の存在に対して必然的に沸き起こる言動
哲学的のものを考えて、超越していく
=気遣い Sorge(ゾルグ)Care
人も発言、自分も表現、その相互作用
ケアは愛を含む。家族を大切にする心
人は本質に会うと喜びに浸り、ほんとうにわかり合えば、いい状態を保てる!
*日常的に止揚して、楽しく生きる
たしかに、「何とかしてやろう!」なんて意識は鼻持ちならない。でも、こうして信頼して通ってくる人に対して、なにか役に立ちたいと思う。ただ遊んでいればいいわけでもなかろう。しかし、楽しく遊べるならそれでいいのではないか。どこで、いつ、今まで気が付かなかったお互いの本質が共鳴するかもしれないではないか。「気を使う」ではなくて、「気遣い」とはそういうことではないか。ないかやることが一杯あるような気になった。