「対象化」を越えて
「対象化」を越えて
「存在現る!」ならいいのだが、「存在を表わす」なら、もう対象化してしまっているのでまずい。しかし、言葉による対象化なしに、物語ることができようか。「考える」こと自体が、客観視であり、対象化ではなかろうか。しかも、責任を持ち、理性的に生きていこうとすればするほど、自己疎外になってしまうのではなかろうか。自動詞「なる」が好きな日本語が、他動詞「する」が苦手な日本人が、多様性の世界に生きるのは、どうやら至難の業のようにも思う。
ただ、「対象化」の嵐の中に、どっぷり浸かりながらも、最近は、別様な在り方、「一体化」の実感に見舞われることもあり、「頭」ではなく、「身体」からわかる感覚の中にいる体験があって、「生きている喜び」を実感することもある。
折角、「鼻かぜ」も薬を飲んで治したかと思って、学校へ行くと、再びひどい状態になって困惑しながらも、「風邪は経過させればいい」のであって、投薬によって体を押さえない方がいい、ということも分かっていて、一日仕事もせず、手紙も書かず、ボオッとしている。すると、青年期のような元気を実感することもあるのだ。「風邪を経過すれば若返る」と、野口春哉師も言われてた。
いくら精妙に言葉を尽くそうとも、必死に訴えようとも、伝わらないことがあり、それでいいのだ、その「空白」こそが飛躍につながる源泉だとわかってきたりする。だから、急いで「ノン・バーバル」の方へ行かなくてもいいのだ、「国語」の教師として、言葉の専門家として、「無知の知」に生きればいいのであって、表現の魅力を他者と分かち合いたいものと思うのだ。
昨日も学校で、「春暁」をやり、「春眠暁を覚えず」と朗読させていたら、一人の少年が、「先生、今朝はまさにそうでした! 何か生きているのがうれしく感じました!」と言ってくれたので、共感でき、かれと親しくなれたのだった。
「自分はなんて駄目な人間なんだろう。」と嘆き、「全く生活の目途がないのです。」と不安がっていないで、今できること、たとえば、掃除洗濯、「修養ノート」、駅前までの外出、散歩などをやっていれば、いいのであって、月の光の煌めく明るさや、咲き始めた紅梅の美しさが、心に入って「一体」化し、うれしいメールを受け取ることになると思う。「駄目駄目世界を生きていたら死んでしまう」と、多和田葉子さんも言ってたし、沢山の可能性を見失わずに済むのだ。(2/8)