「坊守夫人」
行けば必ず夕食を振る舞ってくれる。必ずお土産もくれる。先日は、誕生日祝いだとか、祝い金と採れたてのイチゴとケーキ、赤飯まで下さる。さらには、通信用に切手までたくさんもらってしまう。――恐縮と感謝と歓喜に包まれ、この坊守婦人の存在をありがたく思う。4年前、知人の集いで、その僧坊の昼食会に参加してからのご縁なのだが、一昨年、当方に通ってくる双子の女性を連れて、丘陵歩きの後、お訪ねしてから親交が始まった。僧坊近くの山中にあった大岩の導きかもしれない。天涯孤老のわたしには、なにか肉親に会えたような気持になる人なのだ。
長崎の言葉と大和弁が混ざった独特の物言いが、なんとも温かい!他者の偽善や計算がすぐに見えてしまうのか、この人の前ではだれも隠し事はできない。口先だけで世間を渡っているような人には、「もう来るな!」と怒鳴るほどだが、再起のきっかけを与えようとの気持ちはすぐに読み取れる。ご自身の大変な苦労、財政の立て直し、寺院の再建、新しい事業についても、さりげなく語り、誇張や懺悔でなく話すところが独特で、ついつい聞いてしまい、いつか自分の心も灯がともっているのに気づくという具合。こんな風に、人に語り、ともに生きていくことに味が出るようにしたいものだ。
今朝も新聞に「チャットGPT」の記事が載っていた。もうすべてAIが対応してくれ、文章も上手に書いてくれ、言葉に悩むことはなく、より自然な対話を実現できると歌っている。もしかしたら、もう「国語の先生」は不要になりそうで、暗い気分にもなってしまう。しかしすぐに、「坊守夫人」のようには、絶対行くまいとも思う。その記事では、「チャットGPT」が、「人間がAI にできないこと、つまり人間独自の特徴を生かすことです。例えば、共感や思いやり、創造性、人間関係の構築などがあげられます。」と言っている。わたしたちは、いつも悩んでいるが、かならずしもすぐに「解答」を求めているわけでもないし、いつも「分からない先」を考えているのだ、と解説者たちも語っているが、言葉は単なる記号ではなく、個性もあり、声も伴い、意味の広がりも大きい、非常に厄介なものである。AIを利用して、人間生活の表面は整えることはできようが、内面の方はそう簡単にはいかないだろう。
坊守夫人のアナログさが魅力なのだし、わけのわからない親切さが身に染むのだ。(4/11)