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「動詞の活用」を教える


何も文法を知らなくても、日常生活に支障はない。学校教育の必要は分かるとしても、こればかりは、全く下らぬ勉強になるのではないか。「動詞の活用」なんて、分かって、何の役に立つというのか。中学の時の”悪夢”の再現だ。――これは大方の高校生たちの”本音”ではなかろうか。大学受験に必要だとか言うが、もういい加減にしてほしいと。

それでも、「言語文化」(古典教養)の教科では、「古典文法」を教えることになっている。一介の派遣教師は、それに従うしかない。こんなもの「基本」さえ押さえれば、簡単なこと。能力の有無も、これまでの蓄積も関係ないこと。ほんの少しの暗記と作業で済むこと。それで、「国語」の姿を客観的に理解できるし、表現の機微に接することもできるのだから、やっておいて損ないと思うよ、と一生懸命説明し、プリントに記入させ、概要を掴ませようとする。わたしとしては、「言葉は変化する」ことへの第一歩のつもり。机間巡視と個人説明で一生懸命説明する。

ところが、「基本形」や「語幹」すら何のことかわからない生徒にとっては、もう意欲の外のことであって、取り組む意志のかけらもない。ひとりの子に、それこそ一から説明していると、向こうの生徒は立ち歩いているし、タブレットで余計なことをしている。叱っても、構われたい気持ちがあるから、何の効果もない。いままで教師から無視されてきたからか、そばに行って、顔を近づけて、「わかる?」と声を掛けられるとうれしいらしい。ふてくされる子はたまにしかいない。そして、中に「やっとわかってきました!」と喜ぶ生徒もいるので、このやり方をやめられない。ひとり一人が記入し、考え、取り組まないと、一歩が踏み出せない。

教室が騒々しい、ということなのだろうか。担任の先生がのぞきに来たりする。国語科の主任は「授業はうまく進めてますか」と声を掛けてくれる。どうやら「授業運営」が下手だと思われているのか、と気がかりではあるが、大声で叱責し、静粛に講義しても、生徒自身の関心と意欲が育たないかぎり、結果的には無意味ではなかろうか。当分、わたしは私流でやるしかない。生徒たちが「親愛」の目を向け、「じっつあん」と歓迎してくれていることを力にして。(6/28)

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