「ドアが閉まります!」
「ドアが閉まります。」
電車を乗り降りするとき、車掌のこのアナウンスを聞くと、ムッとする。「ドアを閉めます。」となぜ正しく言えないのか!
朝から、「対象化して見た意識を言葉にしていると、その言葉に疎外されてしまう」という、高麗先生の手紙の文章が頭にあった。そして、午後、『万葉集』講義の下準備として読んでいた大谷雅夫氏の『万葉集に出会う』で、日本語の擬人法的表現について、思いがいたり、「ドアが閉まります。」もありか、という思いになったのだ。
『万葉集』に限らないが、和歌表現を巡って、「見たまま、思ったまま、何の技巧もなく詠むもの」という確信と、「心なきものに、心あらするは詩歌のならい」という見解とがずっと対立している。ここで詳しく論述しないが、「寄物陳志」という擬人法的な和歌が万葉以来の伝統であり、中国の南朝時代から唐にかけての漢詩の影響もあり、日本語表現の修辞の定番になってきた。「山笑う」という春の季語然り、「大伴の御津の浜松」が待ってくれているのだ。
ただ、ここでわたしが言いたいのは、「擬人法」ではなく、日本語の表現が、そもそもそういう特質を持っているということ。主語がなくてもいいし、自動詞が他動詞とセットになっていないで平気なのだ。もうすぐ「秋が来る」のだ。だから、だれも「ドアが閉まります。」に違和感を持たないのかも。そして、案外日本語は「疎外」から遠いのではないかと思うのだ。(8/19)