「センダン(栴檀)」を知る
やっとその大木は「センダン」だとわかった。夙川公園の土手に榎や桜に交じって、黄色い落ち葉も美しく、よく見ると、青空をバックに金色の実もなっているのだ。下の植え込みの花に水をやっている人に、思い切って尋ねてみたのだった。市の嘱託職員のようなその人は。うれしそうに、この木はもうマザーツリーくらいの古株らしいことや、昔は、この土手を、浜の海水浴場に客を送るために、ボンネットバスが走っていたというようなことまで話してくれる。仕事のことや収入のことや老いのことを考えて、結ぼれていたわたしの心がいちどに明るく開かれるような気がした。木の名前が分かることが、なぜこんなにうれしいのか。ちょうど、「言葉を生きる」という若松英輔の文章(『生きる哲学』文春新書の序文)を、学校で講義していたからか。「魂の実在」につながるような言葉さえ得られれば、これ以上の生きる喜びはないとさえ思えたからか。
ネットで調べたら、初夏、淡紫色の花を咲かせ、アゲハチョウがよく訪れるとか。さらに南方熊楠が死の直前に「紫の花が見える」といったのは、このセンダンのことだったらしいと知る。偉人の見たものを見ているというだけで心が弾む。軽薄な救いや金銭による解決、人へ安易な依存ではなく、自分の足で歩き、自分の目で確かめ、自分の頭で考え、言葉化し、存在の深遠に近づいていきたいもの。樹木の名前を知っただけだけれど、そんな思いで、一日を過ごした。(11.20.)