「みちのおく」
昨日は盛岡から仙台へ向かう道中、ふっと行ってみたいと感じるところへ行きました。高麗さんがいだきしん先生に出会う前に平泉に来られた時のお写真、北上川流れる平野を見ておられる後ろ姿です。勝手にタイトルをつけさせて戴くと「国見」です。DVD「麗花」にもあるお写真です。その場所に行ってみたかったのですが、地図アプリで調べていると「展望台」とあり、そこに向かいました。中尊寺の入り口を通り過ぎて山道を上がって行くと、木々に覆われたあずま屋がぽつんと現れました。とても展望できる状態ではありません。巨大な岩と説明板の様なものがありました。その岩には加藤楸邨の俳句「邯鄲や みちのおくなる 一挽歌」と説明板には加藤楸邨の「もうひとつの みちのく」という文章がありました。盛岡の高校を卒業後、東日本大震災後に岩手県に来る巡りになり、いだきしん先生のコンサート、講座、高麗恵子さんの講演会など復興支援活動が人間の内面の解放と人間とはの答えをわかっていける経験を何度も何度もすることで生き方変わる、すごいことです。縄文人の心、魂を経験させて戴くという、とても「コンサート」という表現は相応しくない場に身を置けたことが稀有なことでありますが、現実に起こったことであります。加藤楸邨は芭蕉の「夏草」の一文「蝦夷を防ぐとみえたり」に「みちのく人」のかなしみをみた、という言葉は心に飛び込んで来ました。詩人の言葉は魂に届きます。盛岡での先生のコンサートの経験は、身体の感覚が消えてなくなり、大宇宙と同化していました。何もないことが至高の喜びです。何も無くなっていくと芯がはっきりしてきます。夜は初めて「高麗恵子語り 人生」に参加させて戴きました。とても新鮮で一言一言が全て身体に入ってくる経験です。「内面ひとつの国創り」。木津川での「高麗恵子語り 人生」のことを考えていました。いだきしん先生が以前高麗さんにおっしゃったとお聞きする「貴女の先祖が国をつくっていたら、どんなふうになってたんだろうね。」というお言葉を思い出します。木津川に足を運ぶと、そのことを実現したかった多くの魂を感じます。でもまだまだ人に会う回数が足りません。「無我夢中」ということが、現代人頭を払拭し縄文人になれると感じます。今日の仙台コンサートでの経験をさらに生かして、明後日は木津川に向かいます。6月23日は出会いを待つ魂で満席にしたいです。本日のコンサートも、よろしくお願い申し上げます。