「まこと」を生きる
いつもの「高句麗伝説」とは違って、イダキシン先生のピアノと高麗先生の詩の朗読だけなのに驚いたけれど、いつもの「高句麗伝説」と同じように、疲労が先立ち、意識が飛びそうになるくらい茫然としてしまった。もう詩の文句も頭に入らない、思考力も働かない。今夜はそれがひどい。もしかしたら、危ないところを救われたのかもしれない、と思いつつ、“治癒”に体を任せていた。再生のパワーを得るのだ!と張り切って臨んだことが恥ずかしくも思われた。でも、有り難かった! すっかり良い気持ちになれたのだから。まずは、感謝したい。
さて、それでも頭にこびりついた言葉がある。それは「まこと」ということ。昨夜は、疲れて寝てしまったけれど、今日は、学校の仕事を終えて帰宅し、まず「大言海」を引いてみた。「真事の義」「いつわらぬこと・ホントウ・ホンマ」とあり、あと副詞用法や感動使用法の説明があった。角川の国語辞書には、「➀いつわりのないこと・ほんとうのこと②相手を全力で思いやること」とあり、こっちの方が、高麗先生が後半「愛に生きる」とおっしゃっていたことにも通じ、分かりやすかった。――国語の教師が「まこと」を分かっていない、でも、「無知の知」と開き直って、少し考えてみたい。
わたしは、いまできるかぎり嘘をつかずに生きていきたいと思っている。できれば、事細かに自分の「ほんとう」を話したいし、書き出したい。しかし、だらだら言い立てるのとも違うし、告白して、だらしなく自分を投げ出したいのでもない。さらに、レトリックを駆使して、逆説を振り回し、能力を誇示するのでもない。おとなしく、自分の「まこと」を表現したいのだ。――これも「まこと」に生きることではないか、と思っている。
だが、「全力で相手のことを思いやる」ほどには、利己的で、狭量で、自己防衛が働いてしまう。ただ、精一杯、まじめに仕事に取り組んでいるとは思う。今日も、女子高校生たちに「カワイイ!」と連発され、男子高校生たちに「頑張ってくださいよ」と労られた。たった二週間だけの先生だったのに、心は通じ合ったと自負して、学校の近くの「高師の浜」まで散歩に行ってきた。「音に効く高師浜のあだ波」を見たかったのだ。「あだ波」は、「浮気心」の比喩だけれど、恋心は本当だろう、などと考えて……。
ともあれ、自分に正直でいたい。そして、正直にいられるくらい強くありたい。さらに、どんどん変化していきたい。この「まこと」を確立するために、あすの応用講座に参加する。(5/14)