「ともにいる」とは?(「存在論」受講記)
身体から、の存在論
子どものとき、東京小石川のおばの家に滞在していると、毎朝納豆売りの少年がやって来て、それが朝食に添えられのが常だった。なぜか、大阪の方では、まだそんな習慣はなかったようで、納豆とくさやの干物は、わたしにとっては出身地の味であり、家庭の食の原点だった。そのことを先生のお話を聞きながら思っていて、「頭だけの存在論」では、なかなかわからないんだと痛感した。と言って、わたしは、整体の方からいう「頭人間」(上下型)でしかないのであって、地頭が良いかどうかは別で、あまり「衣食住」に関心がないだけかも。ただ、「寝る」ことだけにはこだわりが強い。最近はよく寝られるので気分が良い。
その気分を理性的に捉え、言葉化し、表現していくことが、「大いなる存在」と共に動く基本マナーである、と昨日の講座で教わった。ちょうど小林康夫氏の本のメモを作っていて、「実存の彼方をめざして」の部分に、「感動とは、存在に於いて引き受けること」とあって、そこは符合する。(その意味で、ハイディガーの「非本質性」の意味が分からなくなったのだ。本来的な本質から疎外されている、ことがいいことなのか悪いことなのか。これから探求したい。)
でも、手を挙げたことで、わたしの頭のモヤモヤはいっぺんに吹き飛び、体が浮き上がるような体感を得た。そして、「存在と一緒に動く!」という視座を確立することができた。うれしかった。ありがとうございます。
一緒にいることの難しさ
学校の教え子で、やっと大学生になったYのことで悩んでいる。かれは、なぜかわたしに関心を持ち、なにかと話に来たり、相談にやってくる。しかし、わたしの言うことは、まるで実行しない。いつぞや国語の模試で、偏差値80を採れたから、「俺は文学的才能に恵まれているのだ!」とふんぞり返っている。だから注意したのに聞き入れず、すべての大学受験に失敗、一浪して、今年やっと京都の大学に通うようになったのだ。しかし、口ばっかりで勉強せず、アウトプットをまるでしない。「どうしてインプットだけではだめなのですか。」と息巻く始末。さらには、現実的な将来設計がまるでなく、(家業は父親が頑張っる八百屋さんらしいが)「朝3時に起きて市場に行く父親は底辺労働者でしかない。」とあきれた差別発言まで平気で言うのだ。その上、クレーマーで近所を騒がせた母親の被害者であり、自分は「発達障害」だと診断されている。だから、しばらくこのままでいるしかない、とうそぶく始末。
そんなことばかり言うのなら、もうとうてい付き合えないよ、と先日も言ってしまったのだが、果してしばらく何も言って来ない。といって「厄介払い」できたと言っていられない気分でもある。どうしたものか……。
講座メモ
*「分からない」=命の危機
*いらないものをすべて取り除く「いだき」講座:運命からの解放
時間から自由になる!
*生きていくことは寂しいこと! 大宇宙でたった一人の生
*生を受けた「場所」への視点
*食療ということ
納豆の力:ガン征圧、ホルモンのバランス改善
塩・オイル・味噌・納豆
糖分を寝る前に取らない/寝ることで精神の安定を得る。
食べ過ぎ、寝不足は×
*存在と一緒に動く:体の状態がさらに良くなる
*木田元氏のハイディガー研究を読め。
(講演会)*比叡山は秋の気配、京都は霊魂が一杯
*先生の言葉で元気に! 大きく変わってきた世の中
*運命がないいだき人! 先生の大掃除のおかげ
*自分で考えて生きる(哲学)
*昔:本絵を出さない関係/今:真っすぐな志、存在と共に
魂は表現されて光り、力を発揮
*命の言葉が分かれば生きていける
*「高句麗伝説」(魂覚醒コンサート)9/7