「こんないい所はない!」
人が人であるための基本(食べる、寝る、着る、住む、仲良くする)が決して狂わないように、人が内面の輝きを失わないように、そして、新しい生き方をする能力アップのために、先生が全身全霊で創出された空間!そこに今こうして臨んでいることの至福。それを感じないで、いったい何をしているのか。
――いや、昨日は、それを身にしみて感じました。血圧不順の体調の悪さも、扇情的な文章に振り回される頭の悪さも、全部引き取ってもらったおかげで、何の心配も危惧もなくなり、とても充実した気分で帰ることができました。ありがとうございました。11月1日に心を込めて参加できます。
信じたい気持ち
だれかに頼っていたい、「神」のようなものに守ってもらいたい、いままでの自分の学習や経験を大切な判断基準にしたい、自分の信じた人を愛し続けたい――こういう思いは、ごくふつうにだれもが持っていることではないだろうか。しかし、それの理由や根拠を問われると、途端に頼りのない、だらしのないものに見えてしまう。自分が単に世評や広告に促されて、そう思っているに過ぎないことや、肝心な自分の努力をさぼって、人任せにして、僥倖にあやかりたいだけの自分勝手も見えてくる。それでどうにもわけわからなくなって、先生に助けてくれ!と叫んでいるに過ぎない体たらく……。いい年して、(年齢は関係ないけれど社会的責任を感じ)しっかりしなきゃ!と、つくづく思いました。
生きる力になる言葉
「自分のいま使っている言葉をちゃんと意味が分かって使っているのか!」と最初のひとこと(「応用講座」)で、ピクンとなってしまった。しゃべりっぱなし、書きっぱなしの軽率な言葉の使い方をしている自分が目の前に。言葉を真剣に探究なさったことから、不治の病を克服されたという先生の話に、あらためて打たれた。朝の講義で、「表現力をつけるということは、単に語彙力を増やすことではないです。「異化」という文学手法もあり、日常語の一つこそ、ものごとの内なるエネルギーを書き表すこともできます。」などと、偉そうに話していたことがおこがましく思えた。
しかし、あの場にいれば、自分の持っている言葉までも磨かれているという実感を、昨日は持ちました。まさに「こんないいところはない!」のでした。