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「ことばのコード」を変えなくては


文学研究やマスコミの言葉では、とうてい体験や社会参加の意味は語れないのだと思った。昨日、京都で、新聞記者OBたちの集いがあり、瀬崎圭二さんを迎えて、その著『関西フォークとその時代』(青弓社)の出版記念講演会のような集いがあった。先日、「片桐ユズルさんを偲ぶ会」があり、その熱が冷めやらぬ時だったので、誘われるままに参加したのだった。やはり東京や広島から26人の「関西フォーク」関連者やシンガーら26人が集まった。

著者自身が最初に断ったように、「詞の中の詩」をテーマに、70年代のシンガーソングライターたちの言葉や行動から、新しい詩論を論述したかったらしいが、そして、片桐ユズルという英語の先生であり詩人の活躍を述べながら、知識人と歌い手の協働の中から「対抗文化」が関西に現象したのだとまとめたかったらしいが、「歴史」でもなく、「研究」でも、はたまた「レポート」でもない結果になってしまった(と、ご本人も苦笑)。ただ、「読み物」としては大変面白く、よく調べ、よく聞かれた結果であり、するどい観点で、「話し言葉」の高まりを記述されており、とても感心した。添田唖然坊の演歌から高田渡・友部正人までの詩言葉の経路と高揚を語り、ユズルさんのアメリカ留学とフォークソング活動を編み込んだ労作だと思う。

ただあまりにも近い。まだ50年もたっていなく、まだその活動の中にいる人も多い。1974年生まれの著者にとっては、過ぎ去った社会現象であり、ぜひ語りたい詩論だったかもしれないが、読者は異論反論を掻き立てられ、ぜひ著者と語り合う機会がほしいと思うだろう。だから質問タイムは時間オバーしても続いた。そう、だれでも自分の体験や参加行動について、「記録」や「評

価」は欲しいもの。しかし、それでは「抽象のはしご」が上がれず、やがて忘れさられる、そして、勝手に語り替えられる結果を導くまでだ。難しい局面に突き当たってしまった。

やはり言葉の「コード」を変えるしかないのかも。ちょうどユズルさんが、一般意味論を落語の語りで紹介したように。あるいは、「対話スタイル」で論述したように。ただ、ユズルさんは、もう最初から言葉の限界を指摘されており、言葉とその指示物の関係を結ぶ主体に注目され、話し手の意識の偏り、身体の問題、感覚の鈍さを何とかしなきゃと、「ノン・バーバル」な活動にウエイトを置くようになっていった。整体やアレクサンダー・テクニーク、ヨガや至高体験にのめり込まれていた。わたしは、国語教師として、「日本人による、日本人のための、日本人の」言葉を育て、みんなが本音を語り、気づきを養い、愛と信頼を交流するツールとして、その学びを続けたいと思っている。しかし、それは難しい。だから昨日の集いに参加してよかったと思う。

マスコミの言葉では、ミニコミの世界は語れないだろうし、「書き言葉」だけでは、「話し言葉」の醍醐味は記述できないだろう。また、「文字」だけでは、「声」の部分を切り落としてしまっているし、「うた」や「音楽」ばかりでは、主観と客観との間を摂りつなげ得ない。さらには、「言葉」だけでは、肉体や頭脳の不思議を語り得ない。「言葉で癌を治す」というレポートを読んだことはあるが、人間存在は容易に語れない。

どうやら、新しい「ことばのコード」を模索すべきかもしれない。最近は、「打ち言葉」ということをいう人もいる。AIの言葉もあるし、大変な時代になってきた……。わたしとしては、「対話」や「会話」の機会、“言葉サロン”を展開していきたいと考えている。(3.22.)

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