KEIKO KOMA Webサロン

生きる。


狛江の地にて、応用コースを開催して下さり、そしてそこに元気に参加出来ることに感謝いたします。
舞台の袖から先生がご登場なさった瞬間、自分の生命がとても喜んでいました。とっても喜んで飛び跳ねているのが身体の裡に感じられました。神聖なものがこの身体に宿っている。これが自分、これこそが自分・・であることに、初めて触れたように驚き、そして生命というものに畏れを感じました。
最後のほうで、先生が山に入られて最初は恐怖があったけれどそれが無くなっていくと、月がとても美しくて町の中で見ている月と同じ月と思えなかった、とお話された時に、その美しさが身体の裡に入ってきて、月の光なのでしょうか、それとも或る存在なのでしょうか、澄んだ神々しさが水面に広がる波紋のように身の裡に広がっていきました。身体って、なんて不思議なんだろう・・・と思いました。先生にお会い出来る場があって、先生の生命に共鳴し、交流し、そこからどんどん新しい力が湧き出で、変化し、上昇していく経験は、この身体があり、生きているからこそ出来ることです。身体を持ち、生きるということは、なんと計り知れない、神聖なことなのかと驚き、自らに畏怖します。
先生の生命と共にあって生きていることは、もう既に自分だけの生命ではないし、自分だけで生きているのではありません。それを曇らせ見えなくさせているのが愚かな頭です。生命のはたらきを無視し、自らを疎外して傷つける、そんな愚かなことをしている暇はもう無いことがわかります。講座でお話下さった、基のこと、生きることの基、について深めていきます。新しい時代を創っていく人間を生きていきます。
貴重な講座の場を設けて下さり、本当に有り難うございます。

日付は変わりましたが24日、三島由紀夫さんと東大全共闘との討論の映画を見に行きました。
映画の最後の章のタイトル「熱情」が心に残りました。右翼、左翼といっても、今の日本で言われている右翼や左翼とは全く違うと感じました。立場を超えた、一つの大きな「熱情」を感じました。日本の未来のことを真剣に考え、行動する人達の熱情でした。当時三島さんと討論した方の1人が、インタビュアーに「共通の敵は何だったのですか?」と問われて、正確な言葉ではないのですが「堕落した日本。」という意味のことを仰ったとき、自分は思わず深く頷いていました。三島さんが亡くなられたことをものすごく悲しく感じました。その悲しみは他人事ではありませんでした。最後のほうで、当時討論の場におられた方々の三島さんの死に対する現在のコメントがありましたが、私にはその多くのコメントが他人事であり、三島さんの死を対象化してしまっていることに、憤りを覚えました。その人達が現在の地位や仕事や生活に甘んじ、生きていることを既に降りてしまっていると感じたのです。あなた、まだ生きているでしょう!と心に叫んでいました。
三島由紀夫さんには死なないで生きて欲しかったです。そして先生と高麗さんの存在とご活動を知って頂いて、絶望なさらず生きる道を貫いて欲しかったです。
三鷹コンサートの時に生まれた「私は生きる。」という言葉が、23日の応用コースと、三島由紀夫さんの映画を見たことを経て、身体の裡で動き始め、何かになっていこうとしています。それを言葉に出来なくても、それでも言葉を探して表現していくこと、表現していけることは喜びです。何か一本の道・・のように今、感じられています。沢山の経験の場を頂いていることと、そして経験したことを表現させて頂ける場がありますことを、有り難うございます。

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ルミエール府中にて
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マドリード ギャラリーより
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東京高麗屋にて