KEIKO KOMA Webサロン

人生


三鷹の地にて「死について」がはじまり、先生から何がわかりたいかと尋ねられ、マイクを持たせていただきました。毎日考えることは死ぬ時にどうなっているかです。物心ついてから、神様が私の行い、心の中を見た時に、どうとるのかということばかりを考えてきました。今日も先生は神様に目はないよ、とおっしゃっておられましたが、そのように考えられない自分なのでした。が、先生にお会いしてからは、生命をもってわかることができ、それだけでも私には人生変わる程にすごいことなのでした。今日は、死ぬ時におおいなる存在との関わりがどうなるのかをわかりたく、お話させていただきました。今生きている人間はふれることもないとお聞きした時はショックを受けましたが、真にわかりたい気持ちでいっぱいとなり、先生のお話を聞かせていただきました。死とは、何をもって死となるのかとの問いに対しては何度も考えました。心臓、呼吸が止まり、医師が死亡とする時が死とより思っていませんでした。が、先生にお話いただきましたように、生きている人間の内に居続ける霊魂の存在を私はよく知っています。死んだとも思っていないで、自分と思っているのです。私の内にも存在していましたので、よくわかっています。先生がずっと問うてくださったように、自分とは何なのかをずっと問うてきた人生です。先生にお会いする前、自分の内に色々な人が住んでいると自分で表現してきました。どの人が自分なのか、どの人に焦点を合わせたら、一番自分らしく生きていけるかを考え続け答えを探し続けました。私は、講演会の時に人生の経験をお話させていただく時、このことをお話させていただきます。真の自分に出会いたくて。。。と詩にも詠ませていただいていますが、もっとも知りたいことであり、わからなければ生きていけないと真剣に考え、苦悩してきたことです。当時も、今もこのお話には反応しない人が多いことが長年の疑問でした。今日のお話から、反応できない程に、死んだと思っていない霊魂と一体化し生きているのかもしれないとはじめて糸口が見えてきました。

おおいなる存在について質問させていただき、おおいなる存在に行き着くプロセスとお聞きする先生のお話をお聞きしている2時間という時間の不思議さを考える「死について」でした。イエスキリストに会いたいので、先生から会えるような人間となり会えたとのお話も目が覚めました。向こうから来てくれるのではなく、自分から会いにいかないと会えないとは、とても驚くことでした。幼い頃から、神様は天から力を注いでくださると思い生きてきました。おおいなる存在につながりたい気持ちも、あまりに一方的であり、おおいなる存在をわからずにつながりたいと求めていることに気づきました。まずはわかる人間となることです。イエスキリストのこともわかる人間になることがはじまりとわかりました。

あっという間と感じる2時間は、死んでも終わらない人間である自分を感じる時でした。何かをする時、何の為にするのかは、常に問う人生を生きてきました。今日の先生のお話から再び、ひとつづつ改めて問いながら聞かせていただきました。何をする時も世界の平和を実現する為にを考え、死を迎えた時、人間としての人生を生きてこれたか、この為に生まれてきたのかを基準に人生を選択してきました。要でないことは、これをする為に生まれてきた訳ではない、との声が常に胸の内から聞こえました。そして今日から、おおいなる存在をわかる人間となるべく生きていきます。あっという間の2時間は時間の軸が変わった空間に身をおいていました。おおいなる存在に会えるプロセスだったと感じると、内に永遠の光が輝いているように、喜び生まれ、希望を感じ、心が華やぐのです。このような経験は他の何処でもできる経験ではありません。人間とし生きていく上で最も尊く、ありがたいばかりです。

京都、琵琶湖「高句麗伝説」完売となり、心よりうれしく感謝申し上げます。最後に奈良「高句麗伝説」が残っています。今日の「死について」の経験がある今、生命は心地よい光に包まれています。やれることもやることも当たり前のことと自然にわかります。ありがとうございます。

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