どこにいても
東北の三日間の高句麗伝説に参加できて、夜行バス、東京から昼バスで帰ってきました。行き方も帰り方も人それぞれに違います。ですが集う高句麗伝説では一つです。高句麗伝説は3日間ですが、私は参加できませんでしたが盛岡の応用コースもあり、一人で計画しているのに出会うことも約束したかのようにその時々で受講生と会い様々な経験もし、まるで悠久の時を過ごしたかのようでした。考えたら昨年も東北にていたのです。昨年弘前公園は八重桜が咲いなていました。私も昨年とは違っています。優しい自然はより豊かに感じられて人が自然大切に守っているすばらしさを町並みからも感じました。
最後の盛岡の時に人の生きる苦しさ、むなしさを感じましたが、高句麗伝説が終わったらその重さはなくなっていました。
今までは何とかやれていたことも障害が残ったことで些細なことも意識せずにはやれなくなりました。そのための体にしていただいたと感じています。誰にということではありませんが働きがあってのことと。
明日からまたここでの生活。私はまるで宝石を裡に隠していることにすら気が付かず自分のことを、汚い部分でしか知らないで生きているかのように生きてきました。本当はどんな人でも美しい生命の花が風に揺れるように生きることができるのです。弘前の優しい風に乗りふわふわと飛ぶように、どこにいても。自分のすむところもいままで見たことのないような水色の空や海が迎えてくれています。これから世界は変わっていくことでしょう。
素晴らしい経験をありがとうございます。