言葉にならないはたらき
狛江応用コースのお話をお聞きし、
言葉にしようとするとちがう、これもまたちがう、という感覚がありました。
まとめようとしている
伝えようとしていることに対して
「ちがう」とサインがでる
もう、まとまりたくないのだと
分かりました。
ハイパーリンクのように
次、次と「これは?」「これは?」と反応していくものは絶えずあり
そのとらえる範囲が狭く、速いと
何がなんだか分からなくなる、
その感覚もはっきり見えました。
現代の機能としてのハイパーリンクは
階層が分かれていき
どこからの問いの派生であったかも
見えなくなって
かえって何がなんだかわからなくなります。
けれど、南方熊楠のノートのように
同じ場所に、完結しないまま、すべてがあることは
内面においては、むしろ健全なのだと感じました。
完成しないことが
健全なかたちであり、
絶えず「次、次」と知りたいこと、ひっかかることが生まれ続ける流れそのものが、ただあるということはわかった。
あとから結果的に振り返って
「こうだったかもしれない」と
一部を言葉にできるにすぎず、
全体も一部も表現しきることは
できないのだと、気づきました。
次、次、と生まれることそのものが尊く、
いまはそこだけを
じっと感じています。
伝えることもできないはたらきに感謝よりありません。
