いしき
あまりにも素晴らしいコンサート ありがとうございました。あまりにすごい音は 記憶として頭に残らず 言葉として固定もできず こんなに素晴らしい体験をさせていただいたのに言葉にならず、悶々とします。
自然を 見ていただけの自分。
しっかり自然と対峙し、ともに生きるということがわかっていなかったです。
大宇宙を物理的な現象として肉体で味わうことができるこの地球は 限りなく すごくて すばらしくて 驚きいっぱい 感謝です。感謝と言葉にしてもまったく感謝が足りません。
2部では 何かに覆われている無意識を感じ、そのように感じた時いったん音が止み、全く異質の 自由の音が始まり、違いをはっきり認識させていただきました。源から来る音は まことの音は 無限で 自由。無意識とは全く違う。
現代人の無意識は、、、無意識に何かが入り込んでいて、それによって動かされ続けてきていることを 感じます。
本日夜勤明けに家に帰ってフロイドのイドを ネットで調べましたが、ネットでは 違和感だらけです。自我が 無意識と超自我の調整をしていると書いてあるものがあり、そんなことが自我の役割だったら 自我ってケチな存在だなと感じてしまいました。そんなもんじゃないんじゃないのと。快楽というけれど、聖なる快楽 聖なる衝動はどうしてくれるのと。思ってしまいます。なんだかすごく変。私の勉強が足りないだけかもしれませんが。
「わたし」 という のは 「渡し」 だなと 最近感じています。無意識と超自我の調整橋渡しをしているだけのわたしだったら、ぜんぜん宇宙的でないし大自然とも生きてない。なにとなにの わたし を しているのか。この世は生きるに値しないところになってしまったということは、地球にとって まったくの不本意。
最近は 介護支援者様のいわゆる認知症(というよりひどい妄想)が急に進んで、いくつもの介護事業所やお風呂サービスなどが、ご本人希望で解雇(正確には事業所撤退ですが ご本人的には解雇ということになってる)となり、その穴埋めを残った事業所がてんてこまいしてこの先やっていけるかと相談する状況で、意識というのはどうなっているのかと考える昨今です。認知症というのは現代人の象徴的な在り方のような気がしてしまいます。危機せまるものあります。
すこやかな 意識を こころから望み 考え いっそうの切磋琢磨をして 現実に臨みます。
すばらしいコンサートをありがとうございました