KEIKO KOMA Webサロン

ありがとうございます


昨晩は「6月23日に向かって」Zoomミーティングに参加させていただき、ありがとうございました。

うわぁ〜!と懐かしい皆さんのお顔を拝見し、画面越しに手を振っておりました。嬉しくて、ご挨拶もしたい気持ちが湧いてきました。しかし、これだけ多くの方が参加され、そのうち発言なさるのは10分の1ほど。発言せずとも、長くコンサートに通い、活動されている方々も多く…と思うと、「自分なんて」と卑下するわけではありませんが、ここで自分がご挨拶するのは少し違うのかもしれない、と感じて、発言せずに参加しました。

けれど、自分の内側から湧いてきて、参加したいと望んで参加しました。誰に何を言われても、もし参加して大変なことになったとしても、覚悟はできているのだと自分で決めていました。これまでは「高麗さんが仰るから」と「人のせいにして動いてしまう」という最悪の事態もあり、発言も“すべきだから”としてしまうことがよくありました。

参加して数分は「場違いだったかな…」と不安になり、必死でノートを開き、気持ちを整理していました。でも「場違いかも」と書きながらも、自分の顔がにやけていることに気づいていました。苦しいけれど、嬉しいのです。

ノートにはこう書きました。
「これだけの皆さんの前で、無意味なことを義務感で話すほど、もう私は馬鹿ではない」と。こうして、今回は「発言は控えよう」と自分で決めて、貴重な1時間を過ごしました。

さて、その後1日経過して本日朝のこと。知人の姿がやたら幼く、未熟に映りました。この苦しさは…「自分の鏡」です。

・幼稚
・自分で自分をわかっていないから満たされていない

そんな言葉が出てきます。もちろん、自分のことだとわかります。何が未熟だったのか?もしかして、昨日発言しなかったこと…?でも私が一番避けたいのは「高麗さんが仰るから」「参加したから発言すべきだ」という義務感で動くこと。それは今回はクリアできた。

それでも、自分が「幼稚」と感じたのはなぜか。考えてみると——

本当は、満面の笑みで高麗さんや懐かしい皆さんに手を振り、ご挨拶したかった。その自分の気持ちを、行動には移さなかったけれど、最初から認識し、大切に受け止めることが足りなかったのだと気づきました。行動に移すかどうかは別にしても、「私は今こう感じている」と自分に認めてあげること。そこが大事だったのだなと。

その気づきを与えるために、知人が鏡となってくれました。気づいた途端に、知人はもう「うざい人」ではなくなっていました。ありがたいことです。

さすがです、というお話でした。
読んでくださり、ありがとうございます。

追記で、この機会に…
お姫様の国に帰られたお話を仙台でお聞きしたときに、私はそれを絶対に知っていると命が反応しました。口惜しさ、悲しさ、等混ざり合い、その気持ちを辿ると自分の中にはオジサンの武士みたいな人を感じます。「だから、愛する人と隠れていろと言ったのに…!」「逃げれば良かったのに…!」と、とても悔しいんですが、姫が逃げないことを知っているのでそれ以上はなにも言えず、少し遠くでムッとして過ごしている感じです。おじさんも今の時代を喜んでいて、今の時代は、デザインやマーケティングを通じて「愛」で戦えるから良いねと笑っている気がするのですが、私は何と会話をしているのでしょう。

そんな辛い時を知っている(?知っている気がする)ので、昨日の6月23日に向かってのお話 Part3でおっしゃったように、高「島」か「麗」で張り合うようなおちゃめなお話を合間合間に高麗さんがなさるのはとても嬉しいです。

KEIKO KOMA Webサロン
仙台電力ホールにて-2
KEIKO KOMA Webサロン
工房にて
KEIKO KOMA Webサロン
新五女山