痛み
存在論では、生きること、人生への標がはっきりいたしました。だいぶ前の話になりますが、股関節の激痛で30分も座っていられず、夜も眠れない日が長く続いたことがありました。整形外科に赴き検査をしてもらったのですが、骨上は問題はなく、原因が特定できず、座骨からの神経がどこか圧迫されているのかもいれないとのことでした。何度目かの通院でも治らず、これ以上は手術しかないと言われました。私は手術すれば痛くなくなるのですか?と聞くと、その時の医師は、痛みの感じ方は人ぞれぞれなので、痛くなくなる人もいるし、まだ痛い人もいますとの回答でした。瞬間私は、ああ、もう病院ではなおらないのだとわかりました。もう自分でなんとかするしかないのだと本当にそう思ったのです。それから自分で調べ、整体なども出かけたりしているうちに、あることがきっかかけで、少しずつ眠れるようになり、回復してきました。人間は眠ることで回復するのだとその時わかりました。しばらくして痛みはなくなりました。
存在論で、弁証法の根幹にある痛みについて話をうかがい、そのことを思い出しました。我が毎の小さなことですが、あまりにも痛いので、自分で解決しようとしたのでした。そう考えたとき、先生が高校生の時、妊娠された在校生の事で動かれたこと、大学時代の紛争のこと、そして今でも世界中の痛みを自分の痛みとして解決に動かれていることとつながります。世の中の問題を我が痛みとして覚えれば、どうやって痛みを超えられるか考え動くはずであり、それが人間なのだと考えます。
神が実現する状態と自分がやりたいことが一致して次々に動いていく、それがみんなが生きていける状態を創って行くとはなんと幸せな論理なのでしょうか。神がはたらく大事ないのちをおろそかにせず今日も過ごします。ありがとうございました。
後藤美香