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救済


三鷹にてのコンサートをありがとうございます。第一部「救済」のコンサートメッセージ「超自然的な存在や力、もしくは自己の精進な努力によって、生理的な病や心理的な苦痛から脱却すること、と定義します。」「超自然的な存在や力」というとても美しいことばに内面は反応し感動しました。「もしくは自己の精進や努力によって」に驚きます。自己を超えた「超自然的な存在や力」という自然や神への畏怖だけでなく「自己の精進や努力によって」でも「生理的な病や心理的な苦痛から脱却すること」ができるとは希望を感じました。つづいてマックス・ウェーバーが提唱した概念で「脱魔術化」について「救いの手段としての呪術を排除すること」という意味のことを云っています。呪術を排除するというのは当然のことです。しかしながら現代、なかなか排除できないのが呪術、あるいは呪術のようなものです。をおきかせ頂きました。マックス・ウェーバーという方や「脱魔術化」や呪術という言葉の意味に興味をもちました。そして「救い」を求めている方々のことをおもいながら「救済」の美しいピアノの音に癒されました。第二部「究極の救済」コンサートメッセージ、「究極の救済」といえば何を想い浮かべ何を感じられるでしょう。をおききして、愛を想い浮かべ内面を感じました。「何方も言葉につまることはないでしょう。「愛」といえれば正解でしょう。」のままに受け止め、つづく「正解ではあっても、現実はなかなかままならないでしょう。」もその通りでした。「究極の救済」としての「愛」を経験させて頂き最高のきもちです。「内面的に深く、宮殿の奥の秘密に到達するような、同時に全方位の広い空間、全生命圏と交わり、限りなく美しい経験」はまさにことばの美しさもあわせて究極の美しい経験でした。

マックス・ウェーバーは「魔術」や「呪術」をどんな意味で使ったのか、「救い」は「魔術」や「呪術」という手段によって実現されるのか、を考えました。
ウェーバーは「アジア」(中国、インドおよびその周辺)を停滞した「魔術の園」と見た。
中国における伝統主義、儀式偏重、魔術の著しさ、知識人の官僚化などの問題や英雄精神、超越神・個人・自然法・自由といった観念、聖俗の緊張関係、自然科学などの「欠如」を指摘し、中国人には貪欲な営利欲や勤勉さはあっても合理主義の精神はないという結論で終わる。
インドについては、徹底した現世拒否思想があり、商業が発達し、ギリシア人やユダヤ人の影響を受け、科学的合理性の契機も宗教的寛容もあった点で西洋に近接していたのに、資本主義が内発的に生まれず、イギリスから輸入されるほかなかったのはなぜか、という問いが立てられる。「カースト」、つまり外見の異なる諸民族の遭遇によって生じ、魔術的なまでに高められた身分制度が阻害要因だったとし、生まれながらに立場が決まるのは西洋の「公的団体」としての教会(ゼクテの対象物)に類するものだと見た。同時にウェーバーは、一方でインドには超越神・自然法・普遍倫理・信条倫理的な罪の概念が「欠如」していたが、他方でバラモンは大衆的「狂躁」を排除し、インドの苦行は技術的に世界で最も(グロテスクなまでに)発達していたともいう。
ウェーバーは「アジア」全体を見渡して、中国ではフランスのように社交的精華が生まれ、インドでは古代ギリシアのように実践的関心を超越した思想が生まれたが、どの宗教も中世キリスト教のような持続的で優勢なものにはならず、悪名高い「アジア人の際限なき営利欲」は現世内倫理へと合理化されず、「アジア人」は「自分すら意味を知らない儀式・儀礼的習慣」に縛られていると述べた。
このようにウェーバーは科学的合理主義の観点から批判的な意味で「魔術」や「呪術」という言葉を使っていたと知りました。
そしてコンサートメッセージにもどり「呪術を排除するというのは当然のことです。しかしながら現代、なかなか排除できないのが呪術、あるいは呪術のようなものです。」とご記載の「しかしながら現代、なかなか排除できないのが呪術、あるいは呪術のようなもの。」を当然のこととしてどのように排除するか、の答えがコンサートや講座で既に、いつも経験させて頂いてますことの凄さを改めて感じました。
「超自然的な存在や力、もしくは自己の精進や努力によって、生理的な病や心理的な苦痛から脱却すること。」
「究極の救済」としての「愛」を経験すること。
「内面的に深く、宮殿の奥の秘密に到達するような、同時に全方位の広い空間、全生命圏と交わり、限りなく美しい経験」をすること。
ありがとうございます。

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