存在を問われる
存在論、参加させていただきありがとうございました。とてもとても些末なことで恐縮ですが、、。一番前尾一番近い席が、空いているので 思わず座ってしまいました。拍手が鳴り先生が登場されすぐお近くまで迫ってこられた時に、段のところのごみを見つけてしまい、あ、う、と思っているうちに先生が段に上がってしまわれました。素早く取ればよかったのにできなかった、、今からじゃなんだかみんな見てる場だし 、など思っているのもきっとうるさいんだろうなと、ぐだぐだ思っているうちに話は進み、結局そのまま忘れてお話に聞き入ってしまい あっという間に存在論は終わってしまい、ごみそのままで大変申し訳ありませんでした。先生の近くにいるということがどれほどのことか、自分のゴミが浮き彫りになる、愚図がそのまま浮き彫りになる、内面のゴミそのまま現実化してしまう、、覚悟して よく考え、改め、また立ち向かわせていただきます。
状況をよくわかること 何度もお話しくださいました。大学紛争の時、学長がパトカーに乗せてもらって帰ったことに、それがどういうことなのか、すぐにピンとこないのは 全然状況わからないということ、とお聞きし、自分もわけわからない人の一人であると自覚。マルクス読んでないとなかなか状況も理解しにくいということも。(先日のアントレで、「周辺をぐるぐる回っている」という表現で少しイメージがつかめてきましたが)
殺人事件を起こした永山則夫が獄中で本を書いたことは、風の便りで知ってはいましたが、ちゃんと興味をもって本を読んだりはしていませんでした。永山さんがマルクスを読まれたということも初めて知りました。永山さんを助けたい一心でマルクスを薦めた大学の先生がおられたことも初めて知りました。何も知らずに、知ろうともせずに、学生運動のことをテレビでチラっと見ていただけの私でした。自分の置かれた状況(みんなに共通の状況)に対してやっている活動だとは考えられなかった。(10代の時の話ですが、今はそんなこと言っている場合でもないです)
存在論では、どういう状況なのかわかること、と何度も仰っていただきました。わからないと正しくは動けず、動かないとそのまま滅びに至ることはもうみんな(無意識には)感じています。とはいっても、状況をわかる感性を失っている者にとっては、わかかれといってもアタマがおぼつかないことが多いわけなので、こうして京都の存在論まで足を運ぶわけです。ひたすら学びます。
状況の中で、違和を感じて、内側からやろうとすることが湧いてきて、それが周りからことごとく反対されたら、それこそ希望かもしれない道理がわかりました。状況はだいたいぐるぐる回っているので、そのぐるぐるから外れて中心のことをやろうとするのは、ぐるぐるしにくくなるので、周りは嫌がります。
「主体性」の感覚も、初めて触れた経験でした。今までは主体性と言う時、自我の主体になっていたのですが、自我の主体と中心の主体とは違うんだと経験しました。
アタマは、つい自分のアタマが中心だと考えがちになります。何なのでしょう、このアタマは。アタマは自分自身のトップとしてアタマがあると思っていて、自分を制御コントロールするものだと心得ているようです。これは教育されたアタマなのでしょうか。
いだきで再教育必要です。
老人ホームのお話は、また新たな発見があり、限りなく深まっていくことは驚愕です。この度は、お互いの「出会い」がおこる場、出会ってどんどん元気になっていく場として老人ホームをつくっておられたのだと知りました。
「介護やりたい」という稀有な人と 介護される人が出会うことで、いままで経験したことのない幸せな経験をしていただくこと。周りの人もどんどん巻き込んで、どんどん新しい出会いがおこり「あんなに楽しかったことはない」と仰る温泉旅行では 他の泊り客も一緒に楽しんでくれたとのこと、もうほとんどお祭りのような場をつくられたのだと知りました。介護なんて超越しています。こうなると介護が介護の枠の中にいるままなのは気持ち悪いと感じてしまいます。自分と違う人と「出会い」が起こることであたらしい変化が生まれていく豊かさは 想像もできない未知です。
いだきしん先生の存在論、本当にあっという間でした。ありがとうござます。
存在を問われている時代であること 迫られます。
存在は中心からしか現れない。