聖・俗・真の人生
昨日、京都事務所での存在論、ウィングス京都でのビデオ講演会、そして応用コースに身を運ぶことができありがとうございます。言葉以上に凄い世界を目の当たりにして私にとっては凄い経験でした。実はどこかで先生に質問しようと考えて臨んだのですが、存在論の凄さに圧倒されてついに発言することができませんでした。霊界とか神々の世界を当たり前に語られる先生が命を懸けて私たちのことを受け入れていることも、バカな頭はついつい周りの合わせたり、合わせていることすらわからないでいる。自分を否定する言葉を謙遜として使ってしまっている。言葉の使い方一つを気づかさせていただきました。
私は歩くことすら人並みではなく、お金もどんどん無くなっていくこと、いわば世俗のごみに頭を取られていました。でもそうではない自分もありました。《はるか彼方≫から毎日吹いてくる風やすぐそばにある自然が訓えてくれる世界は紛れもなくあります。その二つの私。そのことを質問したかったのです。そして京都事務所からウィングス京都に向かおうとしたら先生が言われたゲリラ豪雨。事務所を出たとたんに雨粒が降り注ぎます。早朝のケアから入った私はなぜか折り畳み傘すら持っていなかったのにたまたま後ろから来た受講生に伴われて(足がおぼついていない私を見かねて)。
そしてウィングス京都での応用コースが始まる前には客席に思わぬ顔をを見つけてうれしくてつい駆け寄りましたが、駆け寄るというよりも階段で足がもつれて。どうしても上から目線になってしまいますが、その人から「お互いに」という言葉が出たとき、自分の状態を考えました。常に不安を感じつつも動いている自分、じっとしていられない自分、人や以前の自分と比べて毎日体と向き合っている自分。そうしているうちに次から次へと障害が増えていく。そのことの意味を頭で考えようとして新たなごみにしてしまう。
仕事もしているではないが、歩いているではないか、言葉にすればそれだけになりますが、色々なこと、頭、内面、不安、見えていない自分の姿、そして魂。
今ここ、いつもある命は永遠です。自分にできることだけしていることは自分勝手になります。ありがたいことですが助けられることで甘えも出てきます。それらを超えて出会ったいのちのちから。答えは毎日吹く風にある。。応用コースのピアノ演奏は次元を超えていました。
昨日一晩中吹いた南風は、今朝はなく何の音もないのです。ここから始まる真の人生。