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大切なこと


今週は、広島、長崎と原爆の日があり、終戦記念日も間もなくです。世界中で、戦争や紛争の話を聞き核の話も聞くことが多く 正直つらくなぜ今?と腹立たしくやるせない気持にもなってしまいます。

昔 広島に住んでいたことがあり、母や妹たちと地元の教会に通っていました。
住んだ年月は少なかったのですが、そこで出会った方たちのことを考えると濃い時間だったと感じております。
被爆された日曜学校の校長先生。ご自身は医者として患者さんも診ていらしたと伺いましたが、いつも笑顔で子供たちに接していらしたことが印象的でした。副牧師さんにも出会いました。
そして教会の牧師さんからは、折に触れて原爆の話をお聞きしておりました。爆心地に近かったため教会員の70~80%は亡くなられたとのこと。どんなに言葉で伝えてもその時のことを伝えきれないと、原爆のことは決して忘れ去られてはいけないというお気持ちも強くお話されていました。
断片的なことしか私自身は知りませんでしたが、先日アーカイブの番組で娘さんがお話される番組を見ることができました。
学生時代にアメリカで過ごした牧師さん、アメリカの友人たちにも協力いただき広島の現状を伝え続け、戦後2年目に渡米して、アメリカと日本を繋いで、戦争孤児たちの支援、ケロイドの手術のこと等動かれていたそうです。パールバックさんが第一の支援者だったとのこと。ヒロシマという本はご本人の手記をもとに米国のジャーナリストがまとめられたものだそうです。

1955年にアメリカのショウ番組に突然家族全員が呼ばれて出演した時、エノラ・ゲイの副操縦士と対面、その時彼が当時広島の戦禍を確認するために記録したメモに書かれた「神様、私たちは何てことをしだんだろう」をその場でひと言話され涙を浮かべていらっしゃったそうです。そのあと娘さんはずっと「エノラ・ゲイ」が心から憎いと思っていたけれど握手をして、この時「戦争が憎い」ということに変わったと話されていました。
後年、そのことのお礼をエノラ・ゲイのの副操縦士に伝えようとした時、ご本人はその当時の発言によりペンダゴンに呼ばれたりして、社会からも責められ精神病となり病院に入院されていたそうです。娘さんは当時伺えなかったと後悔されていました。
娘さん自身も原爆症で生死を彷徨ったこともあったり、米国他の医師たちの前で研究対象とされることでつらい思いもされたそうです。

牧師さんが引退の時に「原爆投下された時に少し高台のエリアにいたので、爆風に吹き倒されたものの助かり広島の街を見た時、あらゆるところに火の手が上がり、その時「家族は?教会の仲間は?近くの方たちは?」という気持ちが先に立ち、一心不乱で家族のもとにいってしまったこと、聖職者としてその場の人を助けられなかった後悔が、その後の原爆に関わり人のために尽くしていく気持ちの原点となった」と話されたそうです。
「国を動かそうとしてもなかなか動かないけれど、人から人に伝えることで草の根のように動いてくことで世の中は変わる」と日頃より話され活動されていたそうです。
うまく表現できておりませんが、広島での経験は私にとっても大切な経験となっております。

いだきに出会えたことは、何かの偶然ではないと感じる日々です。
いつも先生、高麗さんありがとうございます。
本日のコンサートもどうぞよろしくお願いいたします。

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