KEIKO KOMA Webサロン

絶食二日目


こんばんは。元気溢れる行商のお写真のupありがとうございます。
こんな風に、あたかも小さなことに拘らなくて済むような、内側から光が溢れる人間になろうっとという気持ちが湧いてくるようです。(とくに素敵な)売るものを介して、人と人とが結びつくという機会をつくる意味で、行商に持っていたマイナスイメージも消えてゆきます。
さて、絶食チャレンジ。今日で2日目。
なるほど、頭は「何か食わせろ~」と主張するかのごとく時々カッカカッカとしますが、実のお腹は別に空いてるともなんとも言っているわけではないのがわかります。先月よりスマホ断ちに成功していますが、その断ち始めの際も、似たような症状が出ていましたので、もう少ししたらこのカッカカッカとした熱っぽい感じ(まさしく人工的につくられた飢餓状態?)も落ち着くのかなと考えています。
今日さっそく感じたことですが、匂いや香りに敏感になった気がします。嫌な匂いだなと感じたら、サーっと離れられます。あとは、嫌なコトモノや不快なコトモノを見るよりかは、快適なモノコトに目や耳の感覚が行くようになった、、、のかな?これはもう少し検分したいところですが。
面白い本を見つけたので読んでいます。「ウクライナ戦争の嘘」と同じ佐藤優氏の著書ですが、「嫉妬と自己愛」。余談ですが、似たようなことに興味を持っている方なんだなと嬉しくも感じました。
今とこれからの世の中をその視点から見ると、嫉妬も自己愛もない空っぽな人間(著書のなかでは『コンビニ人間』と例えられていました)が増えてゆくのではなかろうかという推論は興味深いです。私は適正な自己愛を育めずそれが肥大した人間ばかりになるのでは?不可能にチャレンジをしないチマチマした口ばっかりの人間ばかりになるのでは?と考えていましたが、それすらも失くしてしまうのかと、なぜそうなる?そうなったらどうなる?と興味が尽きません。
京都の応用コース、遅ればせながら拝見しました。ちょうど私が抱えていた疑問、、、たとえば私にはAさんという気が合う人がいるとして、でもAさんは社会的に成功者と言われているわけではない。そこにBさんという社会的に成功者と認知されている人の存在があると、AさんとではなくBさんと仲良くした方が力が湧くのでは?と思ってしまっていたのです(浮気性?)。
でもそれって違うんじゃないの?Aさんとの関係性を深めていないからじゃないの?本音を表現していないからじゃないの?それに、自分が動かないのをAさんのせいにするのもどうかと、、、と考えるようになっています。その疑問に回答してくださったような気がするのです。
ひとまずそれでやることは「本音の表現」ということになるのですが、自分の本音がわからないことには始まらないので、今している絶食の結果を楽しみにしています。必要なこと、必要でないことが仕分けられるようになるかな、と。
ちなみに、私、気が短いなと感じることが多々あって、手の怪我もそうですが、これで損してるな、短気改善したいなと思ったので、どうして?と自分に問いかけてみました。すると、自分のペースで早口で捲し立てる父母に対抗せざるを得なかった場面が浮かんできました。そして、湧いてきた感情、、、やりきれなさ、寂しさ、悲しさをじっくり味わってみました。すると気の短さがすうっと落ち着きました。頭には残っていますが、実際行動に移す時に、「いやいや、それはなしでしょ」と考え直します。
さてさて、人生のリノベーションもこれからです。ますます楽しみになってきました。これからさらに自分、自分と自分に拘るよりも、自分は世の中の観測者・媒介者、部分と考えた方が楽しめそうな気がしてきました。
さっと書いて終わろうと思っていたらいつの間にかたくさん書いてしまいました。あらためておやすみなさいませ。

中川秀之
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仙台高麗屋にて
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狛江エコルマホールにて
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恋の予感2024年春