KEIKO KOMA Webサロン

ありがとうございます


何でも話し合い、感情を出し合える関係性は宝です。しかし、どちらかがどちらかの感情のはけ口としてゴミ箱になる懸念はいつもあります。同じ時空を生きていないと、そういうことが起こります。相手に良くなってほしいと願いつつも、感情を吐き出してスッキリした様を見せられ、こちらに負のものを押し付けられたとき、それをどうしたらいいのか、それをも受け容れられるにはどうしたらいいのかなど、いだきしん先生にお会いするまではそれができず、苦悩と模索をしました。

いだきしん先生は私の中にあるものも引き受けてくださる。そのことを期待して甘んじてはならないのですが、誰もどうすることも出来なかったことをやっていただける、そのことに、ただただ、感謝させていただくよりありません。本当にありがとうございます。

自分に近しい存在ほど、危うい存在となりうるものです。組織でも家族でも、礼節を欠けば、何かが、誰かが犠牲にされます。「あなたはわたしに属するものだよね」という身勝手で曖昧な、合意ともいえない約束のようなものを前提にした関係性の上に相手を見ることは、あまりにも表面的で脆く、支配的でいやらしいものです。見たくないものを見せつけあう醜悪さを、お互い共感しあえる関係性だから、家族だから、と解釈し捻じ曲げることの愚かさは、頭の悪さに直結します。

生命を輝かせて、みんなが本来の自分の姿で、未来を創るために動く。みんなの役に立つ、みんなが生きていける世界にすることを考える。人間はそれが自然な姿と教えて頂きますし、そう考えるとワクワクします。

そうでないと、いったい何のための関係なのか、何をしたいのか。歯車を組み合わせた機構の、その回転する動き自体で人に怪我をさせているようなバカバカしさを感じます。人とのやりとりは、あまりにも身近にあるため軽視されがちですが、おそろしいものです。よくわからない義務と責任と、愚にもつかない秘密の共有は、いつの間にかそれを成り立たせることが目的化され、足の引っ張り合いと、もたれあい、他責思考、共依存となります。抜け出し口の無い絶望的感情と、その体質を表現したかのようなどんよりと曇った空間を嫌悪しながらも、いつのまにかそれに親しみ、懐かしみ安住する生き方が染み付きます。どこかでおかしいと悲鳴をあげているのに、自己欺瞞による破壊的な行動に快感を覚え、その裏で進行している生命の死滅をその快楽物質によって麻痺させてしまうのです。麻薬依存のような、最悪な生活習慣病です。

いだき受講前の我が身を振り返ると、いかに非人間的で病的だったか、生命をおろそかにしていたことかと恐ろしくなります。

しかし今はいだきしん先生にお会いでき、どんどん綺麗にして頂いております。曇り空が晴れていくように、ものごとをよく理解できるようになってきました。ありがとうございます。

それでも、自分は透明な何もない状態ではないことを認識しています。いだきしん先生や高麗さんとお会いしている瞬間の素晴らしい愛の経験から逆算的に見てみると、そのことがよくわかるようになってきました。だからこそ、それが不調のもとになっていることもわかるし、自分たちが自分たちの生命を蔑ろにしてしまう萌芽はいつだってあるんだ、そんな危機感も持っています。

誰のせいでもない、自分自身の問題です。ど真ん中、まっすぐに自分を直視することは、とても怖いです。至らなさを認めることも、言うべきことを伝える勇気も、足らないことを身につけるためにやることの膨大さも、それにかける時間にも、気圧されます。勉強しても、お金も能力も一朝一夕で得られるものではありません。目をそらしたとて、誰に罰を受けるものではありません。しかしそれを続けた先に未来はないことはわかっています。誰かを犠牲にしてしまうこともわかっています。やるよりありません。いだきにより間違いなく能力はあがっています。後戻りする理由も無いのです。

いまやるか、永遠にやらないか。ことはとてもシンプルです。結局は自分の足で自分の道を一歩一歩あるいていくしかありません。しかしその踏み出す足の確信の裏に、膨大なはたらきかけがあると理解します。道を作るのは誰でもない私自身ですが、確かな一歩にしていただくために、いだきしん先生は、私の理解や想像を遥かに超えた、とてつもないことをやっていただいていると感じます。生きてこの足が、この身体があるうちに、やっていきます。

ありがとうございます。

 

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