掛け替えの無い学び
京都にて長時間の講座とビデオ講演会に参加させて頂いていると「私は、、」という意識の枠が消えていきコンサートを経験しているようでした。
当たり前に運命があり名前があって女である慣習や経済中心のところには愛や存在は失われているということに改めて意識が向き、目が覚める程の衝撃を受けています。「ありがとう」や愛の言葉さえ存在を問い続けたところから発している人は世俗の社会のなかには居ないと考えますし、そこには存在を現すということも100年時代の健康な在り方、働き方もないとハッとしたのです。
何か躓いたたところから言葉を発し自分という存在を捉え違えて生きてしまうと始まりから結果まで一貫して外れているということになるのが恐ろしい事だと考えます。しかもその事に気付くスピード感は全ての人にとって加速度的に増しています。
いだきしん先生や高麗さんの仰っている事から外れて上手く行くことはまかり間違っても無い時代とわかる新しい人類史を生かして頂いています。全ては発している言葉に現れ、姿に現れ、やってみないと分からないという過去の常識も新しい時代からは外れていると考えます。
未来が未知ではないからこそ人生100年時代も体の内側からの情報を言葉にしてずっと元気に現役で生きていけるという事が分かり始めました。
「愛のしほり」という御言葉に出会ったその日から言葉で生き方がしっかりするということを経験したひと月でした。たった一言で体や人生が変わる日本の言葉の美しさに感謝が溢れます。
京都でのビデオ講演会は愉しいばかりで、今日はコンサートの様な体感でもありいのちが光に満たされました。美しいことばが身体に満ちている豊かさです。
高度な講座は難解で愉しいです。生きる事の学びを有難うございます。