神の語り
今年東京では最後の先生のコンサート第一部メッセージタイトルに、驚喜しました。「GRACE」。「一般的に優雅さ、優美さを意味します。ここでいう「優雅」とは俗事を離れたゆとりを感じる様、また「優美」は上品で雅やかで美しいことです」という意味にも喜びあふれます。偶然にも、先日、しゃくやくの会高知の会長に、新しく創られるデイーサービスの内装を依頼していただき、とても楽しみに、準備していますが、名前も。。。と依頼されました。見えれば、言葉になるのですが、見えないとならないので、どのような場を作りたいのかと尋ねた時、先生の音楽が流れ、マーブリグのカーテンにて空間を作りますので、居るだけで元気になる場とおっしゃいました。私は勝手に居るだけで幸せになる場と言葉を置き換えてしまい、居るだけで幸せになる場とは。。。と心澄ました時、「優雅」という言葉が生まれたのです。が、デイーサービスの場所の名前なので、首をかしげたままに蓋をしてしまったのでした。この名にするか否かの話は別ですが、優雅という言葉を考えていたところに、コンサートにて体験させていただけましたことがとてもうれしくありがたかったのです。
「今や一人一人の命のこれら余計な因果あるいは因子から解放されて洗練された生命体で生きることを何よりも優先しなければならない時です。さらに「GRACE」の意味は恩寵、無償な超自然的な恵み、はたらきのことです」とのメッセージに光満ち、喜びあふれました。もっとも望む世界を経験させていただけます恵みに感謝し、心ときめきます。
演奏中は、頭のはたらきを考えざるを得ない状態となりました。おおいなる存在は、一気に猛烈なスピードと勢いをもって動き続けることを示してくださいました。頭は、時に止まり、何も考えていない時間が多いことを自覚し、今日をもって頭がはたらくように生きていかねば、生きていけないことを身にしみわかりました。一瞬にし死を迎えることを生命をもって感じ、「一瞬の判断が生命を活かし、一瞬の判断が生命落とす」と高句麗伝説の時に詠ませていただく詩が心に浮かびました。戦国の世にあり戦い続け、一瞬の判断により生死を分ける時代と同じに生きていかねば生きることはできないことを経験し、身震いしながらも、受け止めていくと、心が平安になることがありがたく、人間が生きるということは、このようなこととわかる演奏をお聴きでき、身の内は感謝にあふれます。第2部のメッセージの最後の「今起こっている存亡の機、しかもかつてなかった歴史的存亡の機が起こっていることをどなたも了解されます」が、身にしみわかるのでした。最後のお言葉の前に意味深い素晴らしいメッセージがあってのことでありますので、最後だけ、引用させていただき、申し訳ありませんが、私は一部での経験は危機を身をもってわかり、どう生きれば良いかの答えも見出すことができたのでした。メッセージを部分的に引用させていただき申し訳ありません。
第2部のパイプオルガンの音には第一音から、飛び上がる程驚きました。そして、背中も首の後ろも、全身までも鳥肌が立ち続け、武者震いが起こり続けました。神と出会いました。私は、初めて先生がパイプオルガンの演奏をされた小倉のホールにて、その音を聴いた瞬間、大地震が起こったと感じると同時に、席を離れ、扉を開け、ロビーに出、お客様の避難をどうするかを瞬時に考えていました。何事もなく静かなロビーにて、我に返ると同時にパイプオルガンの音であったと気づき、大笑いし、再び席に戻ったのでした。ただ事ならぬ衝撃を受けたのです。先生のピアノを生まれて初めて聴かせていただいた時も天と地がひっくり返る衝撃を受け、飛び上がらんばかりでした。何事が起こったのかと理解できずに、心臓がドキドキするばかりでした。今日の第2部のパイプオルガンの音もこの時のことを思い出す衝撃を受け、新しい人生がはじまる喜びを感じました。パイプオルガンの演奏は神の語りと聴こえました。おおいなる存在の語りをずっとお聞きしているようでした。欲があるところに悪魔が介在し、永延と闇から抜け出すことができないからくりが見えました。男女関係、お金は欲よりなく、愛のかけらもないと明らかにわかる語りでありました。が、宇宙の彼方の無限な世界に通じる生命は別世界、別次元で生き、生き延びていけることもわかりました。時に、型にはまった人間の生命を型から解き放つ為にはたらきかけ、時に遊びと表現させていただくある状態を繰り返し、混沌とした世界が続いていると感じていると、突然、神聖なる世界が立ち現れ。。。一気に次元が変わるのです。おおいなる存在とつながり生きることがこれからの生き方と全てにおいて明らかに見えます。どこまでも繊細な洗練されたやさしい音により生命の内に光の道が通るのです。はるか彼方とつながり、とても心地よく、身がないように軽く、なんて心地よいのでしょう。アンコールまで心地よく、最後の最後はお祝いでした。これからはおおいなる存在に祝福され、生きる生命です。ありがとうございます。
この度のいだき講座2日目の時に先生がお話くださった一言が心にしみ入り、目が覚めました。「この人の先祖は一人からはじまり、東アジアの大国を創ったんですよ。うんと人が良くて騙されて国が滅んで。。。この人も騙されてばかりで。。。」と笑いながら、全てを受容されるそのお声が魂に響きました。私はいつものように、そうなんです、と笑いました。ところが、この度は心の中で、国が滅ぶという経験をしていながら、まだ騙されるのか、と問いかける存在を感じました。馬鹿がつくほど人がいいとは、子供の頃から言われてきたことです。馬鹿がつくということは馬鹿なのだと初めて気づいたのです。とぼけの皮をかぶり、馬鹿の皮をかぶり、生きることが身についていたことが最近、皮が剥がれはじめ、見えてきたのです。今までも気づかなかった訳ではありません。気づいても変えようとしなかったのです。が、今年は嘘がばれると先生が宣言され、真に偽りが剥がれるように別物とし見えてきました。嘘の皮と自分では呼んでいました。なんでも素通しで見えることを見えないふりをしとぼけていることは子供の頃から自覚しながらも身についてしまっていたことです。やっと馬鹿のままで生きていきたくはないと目が覚めました。先生にお会いしていながら、馬鹿のままで死ぬ訳にはいきません。今日のコンサートでは密かに馬鹿を脱ぐと宣言していました。見事に脱げました。今後は、なんでも素通しで見えることも、生まれ持っての資質も活かし、人類の未来を創る為にはたらきます。全てにお祝いだったのです。心からありがとうございます。