3月の1週目をありがとうごいざいます
大変な世界情勢の中、2022年3月の一週目、いだき始まりの日、コンサート、講座をありがとうございます。先生にお目にかかるまでの間はどんどん余計なものを無くせている自覚があり、個人としては好調、好調などと思っているのですが、いざ先生にお目にかかるとどんどん粗が出てきて、次の課題も現れます。まだあった、まだあったとなります。朝出る時、仕事の前にきれいに整理と掃除をすることで成果が上がる感じは体で掴んできました。こんなすごい裏技を、みんなに教えてしまって良いの?と思ってしまうということは、まだどこか『一人で勝ちたい』良くない気持ちがあるのかなと自分を疑いました。相手によっては勝たないと負けるのでついそう思ってしまい、負けるとどうして困るのかというと動けなくなるからなんですが、そもそも少なくとも今の自分が負けて動けなくなる相手であれば、お掃除や整理をして成果を出すような次元では生きていないことも表現してわかります。更に課題は、帰宅後です。特にいだきしん先生にお目にかかったあとは体が大きく変化しているのか、いまのところ一人になった後に「もうひと踏ん張り」することが出来ません。仕事をしない場合は無駄にたくさん、その日あったことを反芻しながら(あれも失敗しなかった、これも失敗しなかった、と失敗しなかったことに関しての反芻が多いです。この点はもろにこれまでの日本の教育の悪い意味での賜物で、とても保守的で大きな成果に繋がるものでは決してないと感じ、変えることを考えています。)一人で歩いたり、一人でたくさん食べたり、「今日1日、頑張ったよね!」とでも言わんばかりに一人で動画を視たりあまり実りのないであろう行動をしてしまいます。どなたかとお会いしている間は、その時間こそ、そこそこ持ちますが、やっぱり一人になるとくたくたになって、「少しだけ休もう」と横になってそのまま寝てしまったりします。これらの時間もちゃんと過ごせたらどんなにより良いか・・・。世界情勢の大変な中で、投げやりにならずに、より良く在るよう工夫をし変化をと考えます。経験を、親しくなった人にしか話したくないという非常に出し惜しみをしている自分の状態を今回の京都の催し最終日に感じました。田舎者の在り方かもと思いました。もっと素直に生きないと、今よりもっとかっこ悪いことになるのがわかります。京都コンサートでは知り合いの知り合いで、お顔や手足にタトゥーのたくさん入ったお嬢さんがお見えになってびっくりしました。ワンポイントとかでなく、おでこからほっぺにかけて大きなくもの巣がおありで、お顔を太く蛇か蔦のような長いものが横断されていて、喉には「アスクレピオスの杖」の模様、その周りには漢字でかっこよい熟語が刻まれています。びっくりもしましたが、頭で作った優等生っぷりや半端なのが丸見えなのに隠せていると思っているような傲慢な在り方に辟易していた自分は正直とても嬉しかったのです。このくらいの突き抜けた方を、当然その人にもよりますが、正直自分はとっても好きと感じました。お話をしていてもまるで子供の頃に戻ったように楽しかったです。しかし周りから見たらどう見えるんだろうかなとも思いました。コンサート後はタトゥーがボロッと落ちたかと感じるほどお美しく、以前先生にお伺いした「ガングロ」のように、隠さないと美しすぎて男性などから身を守れなかったのかもと感じました。あとは敢えてあのようにすることで、近づいてくるものを選別する効果があるのかなとも思いました。美しい人は大変ですが、これからはそのまま生きられる時なので、素直に笑い合えるひと時を大切にしたいです。
核のボタンを押されたら、と恐ろしいイメージを抱きながら、以前贈られた秋田犬や周りの犬たちも一緒にダメになってしまうことから伝って、現地のこどもや人々の痛みを身近に感じられないものかなと、そう簡単にいかないのだなと、悲しいです。