KEIKO KOMA Webサロン

内から湧く力


前回の東北応用コースへ向かう道中に東京駅でPASMOを線路に落下させてしまい、なんでこんなミスを・・・と落ち込みそうになっているときに偶然歩いていらした命の明るい受講生の方にご挨拶させていただき、いや、反省はしても、めげていては存在から外れるのだ、元気に生きるのだと、気を取り直して配信に申し込みました。このときはまだ仙台コンサートを恐ろしく感じており、直接の参加をためらっていたのです。でも参加させていただくことにもこのとき決めました。仙台コンサートの後、新幹線で青森へ戻るつもりが東京行きに乗っていて、宇都宮で折り返して、最終が終わっていたために仙台で1泊しました。その後青森へ戻りまして、24日の上京が、大切とわかりつつも汲々とした空気に挟まれ億劫で億劫で仕方ない息の詰まる中、やっとのことで引きずるものを振り切り発ちました。そして「衆妙」と「溢れ出でる愛」のコンサート、昨日のジェンダーをめぐって、と続きました。やっと書き込みをさせていただけます。少し前を振り返ると「どうしてあんなにも愚かな自分だったのだろう」と思います。これらの「成長」と呼べる度合いがいだきの催しに参加しているとより高まっていきます。だからいだきの催しに参加し続けて、そして日々を新しく生きるよう決めていけば、現在では想像もつかない内面の自分へと変容できるという希望をいま活き活きと感じています。

ジェンダーをめぐってでの、「柳の木でひっぱたいていた」というお話は、え?誰が??誰を??まさか??と聞き返したい気持ちでいたのですが、ボイス講演会をお聞きして「あ、やっぱり女王さまが・・・」と笑ってしまいました。愛のある鞭はかっこいいです。最近はまず自分に、もっと厳しい人間となろうと声をかけます。美を感じます。裸が美しく、そこに、ふさわしいものを着衣していくお話もお伺いし、宇宙や内なる神と繋がりその見えないことろから重ね美しくする厳格な在り方の欠落した自分にたるんだ醜さを感じます。見えないものは、見えないとされる時代が長かった。しかし、もう、見えないものも見え、感じられる世界です。そうでなかったとしてもきちんとしたほうがもちろん良いですが、そうなってしまったからには更に逃げ場が無いことを、わからなかったりわからない振りをするのは、全然面白くもないし可愛くもなく、美しくもないです。先生のご家族の皆さんは強く、かっこいい人を好きとお伺いしました。強い、かっこいい、とは、、、とも近年考えるようになりました。焼き魚の骨のような古く斜めから刺さったものが抜けていく感覚を得ながら、「世界史が変わったよ」の先生の言葉にギクッとしました。世界のことが気になるのは、「あい」あれば当然であること、「あい」なくなっていくときに自分のことだけで良くなること・・・その「あい」無い状態に、普通に生きているだけで流れついてしまう世の中です。なぜ、先生のいらっしゃる今、私たちが真の意味でいだきで生き、本音で生きることが世界中の理不尽な問題を解決する可能性があるのだろうか?と考えます。神と自分の関係による宗教的実存で生きることは、これが出来ていかないといつまでも人の目を気にしたり怒られることを気にしたり外側を気にしていく先の無い状態です。

コンサートへ人をお連れする際は、チケットを買っていただいて一安心ではなくて、そこから先どんな自分で生きているか、つまりどんどん変化し続けているかの方が重要なんだと痛感します。良くて怪我、はまだ無いものの続くミスに我ながらゾッとし対処に追われます。

東京へ来た際、夜に整理する場所が「まんぼう」により無いので、朝早くにカフェに来てPCとノートとペンを持ち込む習慣となりました。今日の「トナラ―」(席が空いていてもなぜか隣に来たがる人をこのように呼ぶそうです。)は、大学生っぽい男性です。まるで一緒に勉強しているみたいです。

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三鷹市芸術文化センター風のホールにて
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こんにちは??
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高麗恵子即興詩3回目ー 結工房にて