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衝撃的経験


ふらふらで通常の3倍くらい時間がかかりながらの帰路。ぜひ写真に撮ったその場面をこの目でも見てみたいと高麗さんの書き込み拝読しながら心が泣いています。いちばん好きな神様があらわれても、それを『凄い』と漠然としかわからない私の感性ってなんて鈍いんだろう。ただ体の衝撃だけはものすごく。コンサートは力任せにただ参加させていただけば良いというものではない、書き込みもただ惰性のようにさせていただけば良いというものではない、そうこれまでの己を改めて、どこまでが共有したら良い内容なのか、どこからが私的で自分の内だけに留めておいたほうが良い内容なのか。ただ正直に書きますと2部は弘前に住んでいたころの経験ばかりが浮かび、そこを離れて大切な人や場所との別れがあった辛さ、小さいこどものような生き物(自分?)が受け容れてもらえるまで成長してやらないぞとひたすらまとわりついてくる、おまえがいると苦しいんだよなあ、と額に汗しながら痛む背中や腰を感じる、そんな時間が長かったです。そのうち、イボがコロリと取れるように、ふるくなった皮が剥がれるように、小さい生き物がポロッと分離して、確か『本当の自分を隠すためのフェイクだったのかもしれない』とか思いました。単純に書くとこうですが、同時にもっと沢山のことが起きていて、たくさんのものが剥がれました。先生の音が体に入ってきて一つであるという体感がいつもより強かったです。みんな多くの自分を潰す辛い経験をしているのに、自分の経験だけがまるで特殊であるかのように感じているのは愚かであります。帰り道は街路樹が話しかけてきたのですがその言葉は、なんとも、もしかするといだきしん先生の影響を受けているんじゃないか?と思ってしまうくらいに、聞いたことのあるような言葉だったのでここには書かないでおきます。その気になっているだけだったら痛々しいので・・・でも、『書かないでおきます』と書かせていただいて気付いたのですがその言葉はアフラ・マズダ様のエピソードのときにお聞きした内容に近いもので、それが聞こえたときはまだ高麗さんの書き込みを拝読しておらず、衝撃強くありがらもコンサートにてお姿を顕されたことは知らなかった私です。いまになり、偶然の一致を知りました。その言葉で体はとても楽になり、自分を責める思考から解放され、『(自分に都合が良すぎるかもしれないけど)いまは、そのお言葉をそのまま受け止めよう』と、感謝しながら歩きました。自分に都合の良い勘違いと、真の目に見えないメッセージの、決定的な違いは何なんだろうと問います。勘違いでも、自分に都合が良いと楽になりますから。でももし本当に、木やアフラ・マズダ様のお言葉でしたら、勘違いかと思うのは失礼にあたります。勘違いも失礼も、どちらもしたくない、してはならないものです。

脈絡がないのですが、『まだ当然会える』と真底安心していたら突然相手との永遠の別れが訪れるという因子が、3歳までに体内に入り込んだものの中にあったと思います。その後も何度か経験していて、別れは嫌ですが、いだきで生きていれば別れはないことをもっと良く感じ考えてみます。

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府中の森芸術劇場どりーむホールにて-3
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比叡山 工房にて
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