KEIKO KOMA Webサロン

幸せ


今日も、今日のコンサートの経験がなければ人間としての人生を生きていけなかったと胸の奥深くで安堵しています。仙台でも表していただきました神に出会えなければ人間とはなれなかったと救われた思いでしたが、今日もこの経験がなければ、どんなに動いても世界を変える動きにはならなかったと見えてくるのです。先生のコンサートの凄さにはいつも畏れ入ります。今考えれば、昨夜から今日のコンサートのテーマに向かい、体が変化していたのです。頭の芯が冴えてしまい、眠気が起こらずに、眠れずに、体もしんどい状態でコンサート会場へ向かいました。途中、車をぶつけられた、ぶつかっていないと言い争うことが起こり、警察沙汰になりました。近くにいるひとも怒鳴りつけてくる人もいたり、みんな狂っているとしか感じられない経験をしました。恥ずかしながら私も黙っている人間ではなく戦闘的ですので、騒ぎが大きくなってしまいます。わさわさした空気で身が痛いコンサート前でした。コンサートがはじまると、昨夜からの頭の芯が冴えていく苦しみがそのまま浮き彫りとあらわれ、辛いままにいながらも美しい先生のピアノ演奏をお聴きしました。会場もざわつき、あり得ない物音がしたり携帯電話が鳴ったりと、心が平静ではいられないノイズの多さに、自分はどのように考えていったら良いのか、解決への道を考えるのですが、頭がはたらかずに、不快なままで辛い状態を変えていけないのでした。メッセージの中に書かれてありました「自由」ということを考えました。頭の芯が冴え渡り、辛い状態は自由とは程遠く、中心が決まらない状態で辛いままに燻っている感覚が気持ちが悪くてなりませんでした。結局、この社会で生きることは自由はないと嫌という程身にしみます。私は社会の枠にはまり、不自由に生きることはやれない人間ですので、この社会で自由に生きたいと望み、自由に生きようとすれば自分勝手になったり、我が強く自己中心となってしまうことを嫌と言うほどわかるのです。先生のメッセージのお言葉では「人間中心」と受け止めました。人間中心である頭が辛く苦しいのだと自覚しました。頭上には、生命の力がたくさんはたらき、力に満ちています。神々が働き続けてくださり、生命が連帯し、新しい世界を作り上げています。この世界こそ自由であると感じます。日本の神は全てを受容してくださり、一人一人はあるがままがあらわれ、やがて生命は源に融合していくことが見えます。宮城の神に教えていただいたことがずっと心にありました。先生の演奏をお聴きし、図形には神の働きが見えました。神の働きは生命の力となり、この生命の力により、頭の芯のとげとげした状態が溶けていきました。頭は空間と溶け合い、やがて空間も自分も境がなくなり、「ここに在る」状態となりました。今まで考えてきたこと、やらねばならぬと感じてきたこと、何が良いことか何が悪いことかと考え、基準を設け、判断してきたこと等々、すべて頭で作ってきたことには辟易します。気持ちが悪くてたまりません。何が善であるのか悪であるのかを誰が決められるのかと虚しさまで襲ってきます。世界のことが気になり、いつもなんとかしたい気持ちで何ができるかを考え続け生きていますが、この世には気持ちを吸い取り、使おうとする仕掛けがあるのではないかと感じる程、何かをやりはじめると疲労困憊となります。先日のレバノンの難民キャンプに物資を送る活動も、一歩間違うと、皆の善意が使われ、何の解決にもならないことの為に動かされていくように感じることがあります。気持ちを表し、活かしていきたく行った活動であっても、とんでもない痛手を負うことがあります。この社会の中で気持ちを活かしたり自由に生きることは今まではできないことであったとわかるのでした。そして、生命は解放されていった今日のコンサートがあったので、この状態で生きてこそ、この社会で生きながら自由をも経験できることに畏怖を覚え、過去の自己中心、人間中心となる頭の芯のとげとげした状態が溶けた今になると申し訳ない気持ちと、まだ救おうとしてくださるおおいなるはたらきに感謝の気持ちがあふれでてきます。

第一部「いのちのちから」

「何事につけひとつの山を乗り越えて新たな自由を手に入れます。自由は固定されたものではありません。単に流動的であるということでもありません。不自由を認識し不自由を越えて自由があります。その時にはたらく目に見えない「ちから」があります。単に自由、自由といっても自己中心、人間中心のなかには自由という解放された喜びはありません。今やようやくといってもいいでしょう。人間中心の不自由な社会は音をたてて崩れていっています。人間中心で生きてしまった方達にはなかなか気づけず、気がついた時には不自由どころか生きることすら困難な状態になるでしょう。「いのち」に見えない「ちから」がはたらいてより良い自由な生を生きることができます。「いのちのちから」ご堪能ください」

第2部では、完全に頭のとげはなくなり、愛の演奏に聴き入り身を置きました。ここに身を置き、コンサートを経験できる生命は幸せ、と芯から感謝と喜び、幸せを感じました。同時にここに居れない生命は悲しいと感じました。メッセージの中にありました「目覚まし時計に起こされてはじまって元気にスタートし一日がほんの少しでも自由を手に入れる動きになるでしょうか」の如くに、時間に拘束されて生きることは、人間の本姓とは違うのだということをしみじみと感じました。拘束されて生きる不自由さに生命は悲鳴をあげているのです。特に今はコロナ禍にあり、さまざまな規制が作られています。コンサート前に経験したことは、少し何かのきっかけがあれば皆お腹にためているものが爆発していくのだと感じました。腹いせというのか、自分の行き場のない感情やエネルギーを何かのせいにし、ぶつけていくのです。それはほとんどの人がそのような状態となっていると甚く感じました。私も、自分の内にたまっているエネルギーがあることを確かに感じ、このエネルギーは活かしていくことをせねばならぬと考えます。「時間は源ではありません。「源」から発する目に見えない光。内面で感知し、ちからが湧き、意識することもなく時も忘れ、何事も成していきます。あえているなら幸せな時です」とのメッセージが心に染みます。ここに居れる生命は幸せと心底感じた時、その前まで混乱していた頭が空間に溶け込みました。今後、人に対してどうあることが人間とし真っ当なのか、世界の平和を実現したく実現に向かう活動を考え続けていますが、人間中心ではなく考えていくには。。。等々、もう一度振り出しに戻ってしまったかのように混乱しました。幸せを感じ、感謝にあふれた時、頭で思い巡らしていることは全て消え、ここからはじめていこうと内なる力が湧いてきました。この経験を知らずして人間とし生きることもなく平和な世界を実現する活動もできることはないと気づいたのです。今までも平和を実現する道を見出し活動してきましたが、今日のような衝撃的気づきは初めてのことです。やっと時が来たのだと喜び生まれます。今この時に真に必要なので先生はコンサートで表現してくださったと受け止め、すごい時を迎えていることに魂震えます。それもコンサートテーマを知らなくても生命は解決に向かい反応していたことにも驚きます。頭の芯が動き、コンサート後はふらふらでした。書き込みもできないと感じていましたが、表現でき、ほっとしています。帰宅しどうしてもやらなければならない仕事だけは終わらせようとし仕事したのです。すると心は平静となり頭もはたらいてくれたのです。いだきの仕事によりいつも助けられています。いだきの仕事をしていると体の具合が悪い時も良くなり、辛いことがあっても心が光に満ち、抜け出していけます。今日も心より感謝しています。ありがとうございます。

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ロームシアター京都にて
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府中の森芸術劇場 どりーむホールにて
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珈琲即興詩:結 ゆひ