あたま、ことば、活力
今日は臨時で夜勤お休みいただけたので家でゆっくり睡眠をとることができました。11時ごろ起きてすぐ頭に浮かんだのは、今日のビデオ講演会はどんなことがお話されるのかしらという事でした。
早速高麗さんお新しい音声がアップされていて聞かせていただきました。ありがとうございます。美しい声に心地よいばかりです。
それで何か書こうとしたのですが、出てこないで、そのままいろいろな用事に突入してしまいました。
結局自分は考えることが苦手なんだと自覚します。正直めんどくさくなってしまう。
言葉そのものが なんだか面倒になっている。
頭が馬鹿だから、働かないから、でありますが、面倒な言葉を使っているからなのか とも考えます。
言葉そのものが、ちゃんといのちに通じる言葉なら、そんなに疲れなくていいと思う。
面倒な言葉を使っているうちに、言葉そのものが面倒になってしまったかも。
しかし、言葉が、世の中を動かし、ヒトを制することも事実。
言葉によっていろいろな規則ができていて、統制、制御されます。
言葉に従う事そのものに もしかしたら自分はかすかな違和を感じているかもしれないけれど、それは言っちゃいけないと抑え込む自分も居ます。
ごちゃごちゃ言葉を並べてしまいました。申し訳ありません。
まっとうな、美しい言葉でないものは疲れます。
やっぱり頭。アタマが美しいこと、活動力溢れることを求めます。
ところで話は変わるのですが、先日の夜勤で感じたことを考えていると、難病で横になっている方は、労働も、仕事もしていないけれど、明らかに活動は豊かにされているのだということを はっきりわかりました。数か月前、モルヒネ24時間投与でしたが、それを脱出しました。いつも自分の身体について自分で、この薬はやめてとか、こういう薬にしてとか、ちゃんと意思表示されます(ヘルパーには読み取れないのですが、たった一人の昔から継続の看護師さんにはわかる)。その方のために50人くらいのボランティの方がかかわっているという朗読のデーターがネットで常に送られてきます。最新の書籍の新聞書評などをいつも頭でチェックしておられます。朗読される小説の文章を味わっておられます。表情筋も動かないので見た目にはわかりませんが、明らかに気持ちがゆったりされておられる感じは伝わります。これが活動でなくて何でしょう。
とりとめもなく書いてしまいました。まとめるのもなんだか疲れる今のアタマです。申し訳ありません。