愛と身体と全体
京都コンサートの日、妻とうちの両親と妹の5人で食事をした。久しぶりにいろいろな話をし、盛り上がったが、最後になって京都の「死について」の講座で自分が経験したことを話したくなった。完全に整理できていなかったが、今感じていることを簡潔に述べ、それから導かれる自分の歯科医院の未来についてとうとうと話した。それをみんなが何も言わず、ただただ真正面から聞いてくれた。ありがたかった。ほんの2、3分のことだったが、時間が止まったような不思議なひと時だった。その時、自分は昔からこの人たちに愛されていて、そして今も愛されていることを強く感じ、幸福感に包まれた。
考えてみれば、自分は人よりも恵まれた環境にあったが、子供のころから生まれてきたことを何故か後悔していた。それは自分が弱い人間だからそう思うのであって、もっと強くならなければ生きていけないと思えば思うほど自分を疲れさせた。生きる理由が決定的に欠けていた。それがいだきしん先生に出会うことで変化していくわけではあるが、いつこの世から消えてもいいと思っていた人生観が消え、長生きをし、やるべきことをやろう考えている今は途轍もなく幸せな人生だと思う。
6月20日の「死について」の講座での経験をなかなか整理できずにいた。歯科医療に携わっていると人の悪い状態を受けてしんどくなることがある。以前から人から受けることをネガティブに捉えていた。それがコロナ禍で人の状態が精神状態を含めてあまりに悪く、自分の身体を開いて相手の命を感じ取る、そうでもしなければ通常の医療行為だけでは痛み、苦しみから人が解放されないと思うようになった。2、3カ月前の話である。それで、積極的に自分の身体を使うようになっていった。胸の前面が開閉できる感じがあって、それを開いて相手がどんな状態かを内面深く感じ取る。それをしたからと言って、すぐよくなるという話ではないが相手が穏やかになる、表情が変わる、何かが違うという感じだ。自分としては身体を使っている感覚があるのだが、それは単なる思い込みではないのかという疑いが拭えず、先生に質問させていただいた。頭が作り出した妄想ならやめなければいけない。ただ、このことを否定されると、自分の身体感覚が狂っているということで、自分自身に対する信頼が一挙に崩壊する、とても怖い質問だった。先生に「けち臭い」と言われて、一瞬何のことかわからなかったが、「やめろ」とは言われなかったので内心ほっとした。少しして普段は身体を閉ざして受けないようにしているという事に対しての答えだとわかり、さらに、普段からそうしていればいいものを、頭が悪いからこういう思考になるのだということも時間が経つとわかってきた。自分が受けたものを空間を通してダイレクトに先生に繋げられればいいのに思うことが時々ある。この質問の後、空間とか身体とかという言葉が息をし始めた。
講座から帰って身体で人を受け入れるトレーニングしていた頃のことを思い出していた。35年ぐらい前のことだが、先生に出会う前の約3年間、能力開発セミナーの受講に始まって、瞑想、ボディワーク、ヨガ、カウンセリングなどいろいろ試みていた時代であった。整体の先生にアプライドキネシオロジーを用いた治療法も習っていた。その先生にはカウンセリングや身体で相手を受け入れるトレーニングなども教えてもらった。いだきしん先生に出会って、いだきと相容れないとわかるとすべてをやめ、その3年間そのものを封印した。しかし、封印した3年間を思い出してみると、真理に直結したものはないものの、この経験があったからこそいだきのすごさを理解する手助けになったような気がする。この頃の経験を語りだすときりがないが、結論から言うと先生のおかげで自分の語りたくない過去もそれをそのまま受け入れて未来への糧とすることができた。
この1週間の変化は激しく、文章にすると書き終えたそばから整理された分、今の自分の状態とかけ離れた感じがして何度も書き直した。今回これらの経験を通して自分が世俗的な愛であったとしても人よりも愛された経験が多くあり、それにもかかわらず、愛する力が足りないがゆえにいだきでいう双方向の愛に至らないことを自覚した。それは自分の力を出し惜しみしているからであり、せっかく豊かな内面を先生に育ててもらいながら全体に溶け合うことを拒んでいることが問題であることもわかった。
また、6月26日の高麗さんのビデオ講演会の内容は、自分の状態とシンクロしているようによくわかる話で驚いた。自分が先生のようになればいい。1週間前はそんなことをいうのは畏れ多いことと思われたが、激動の6月を終えようとしている今、それも当然のこととして目指すべき未来であると確信した。
いだきしん先生、いつもコーチングしていただきありがとうございます。