しきりの世界
ソーシャルディスタンスが叫ばれるようになる前から、個別指導の学習塾にはよく隣の席との仕切りがあった。私の時代は、私のような一人っ子は約40名のクラスに1人くらいしかいなくて、でもその後は年数をかけて爆発的に増えたようだ。そんな私が中学生の頃に、初めて仕切りのある学習塾のチラシを目にした。都会から入ってきたチェーン店である。友達は「ヘンじゃない?」と感想を言っていた。私もなにか本来あるべき自然の人間の姿に反する違和感は抱いたが、正直「人目を気にせず勉強出来るなんて気楽そうで良いな」とも感じた。今思うと私自身が育ちも、それにより培われた中身も『しきり世代』(私がさっき作った言葉で辞書にはないです)の出始めの人種であり、2000年代以降の社会、若者の問題について書かれたカウンセラーの本などを読めばまるで自分のことのようで赤面する。ただ私より大きく下の世代がドンピシャで、私は、同じ要素を持ちながらも早めに誕生したと感じる。
いだきでは人との繋がりが大切であること、内面が現実をつくりだすこと、能力を発揮することの大切さ、健全な仕切り(人との距離)は命を仕切らないとでもいえる、自立した結びつきの有り難みなど、ただただ少し都会にかぶれた田舎の人として過ぎていくはずだった私の脳天に雷を落とす学びを多くした。いまや私は、外から見たら普通と変わらなくても、中身が、いだきで出来ている。同時に私が得て、感じ、考え身に付けるいだきの全てが、これまでの社会では有り得無いことで、かつてない。あのコンサートの聖なる世界が自分の身の内にあるという経験の宝をいっぱいに、いのちに含んでいる。
街のコーヒーショップでは心地よい仕切りが一人一人を区切り、ワイヤレスイヤホンで自分の世界に入る若者はぶつかっても気付かない。私は本来その世界の一人であるけど、仕切られている若者たちの全員同様に丸まった背中にある時恐ろしいような気持ちになる。本来生えていたはずの翼が、全部折れているように見える。彼らの気持ちがわかる。いや、彼らに自分の幼稚さを投影しているのかもしれない。そしてその背を丸めて視線を落とした小さな窓の向こうに何があるのだろうかと怖くなる。部分、部分で区切られたそれぞれの小さな画面は、さらにヘッドホン、感染対策の仕切りで隔てられる。
本来、同じように壁に向かい、背中を丸めてスマホを見つめる側の一人である私が、コンサートを経て、仕切りについて考えている。いまの私自身が、いだきで中身を大きく変容し出来上がった。私の小窓に映るのは、美しき王の姿である。