内も外もひとつに生きる
6/5 杉並公会堂コンサート
第一部のはじまりの音が内面に落ちていきました。清らかな水の流れのように広がるピアノの音をきいて、なんだろう、と目を開けると、先生のお召になられたお着物の模様そのままの音であり、清らかに美しく、内も外もひとつに生きることを教えられます。
次第に見えるのは大きな木でした。風に木の葉が揺れて木全体が揺れています。よくみると木の上の方の真ん中あたりに白い花びらの花が、木に一緒に生えて一緒に揺れているのです。大好きなその花は、かつてのコンサートでイエスと一緒に散歩に行った野原にいっぱいに咲いていた花でした。そのお花畑に寝転んで気持ちいいよ、とイエスに語りかけると、イエスはただ笑っているだけでした。その時からその花は永遠に私のシンボルとなっていきました。
一部では、私は自然に生きる、自分になる、と言っていました。自然に生きると物事は良い方に実っていくことを生命は知っています。昨夜はコンサートで見えたものを絵に描いていて、内面とひとつになれる描き方というのか、内と外がひとつになったとき、とても満ち足りていき、自分を見出したのです。
二部では、一部の経験で何か深い所に到達できない気持に気づきます。現れる問いを投げかけると、答えが帰ってきます。何度も何度もそれを繰り返し、自分はどう生きたいのか、言葉にしていくのです。次から次へと問いが生まれ、答えが生まれ、ようやく本音が生まれると、内面も高まり、高まるとそれに合わせて、ピアノの音も内面に呼応するように、うねりを上げ、ともにあるのでした。そのキャッチボールのような、大いなる存在との会話のようなことをずっとしていました。
それらはすべて自分の言葉で理論的に築かれていき、砂の城のように波が打ち寄せてきても、あっという間に波にさらわれて、音も立てずに壊れていくようなものではないことを、存在は知っているのです。存在は知っているけれど、生きている人間は忘れている。二部では、欠けているところが光で埋められるように、満ちていきました。頭の右上が腫れ上がり痛みます。生命の要求を聞き入れない頭は、ずっと痛く腫れていていましたが、今日は、地図を見ながら、見える駅まで帰り道は4キロ歩くと決めていたので、夜風に吹かれ歩きながら、、気がつくと痛みはなくなり、頭の腫れも引いていきました。今までと同じには生きられない、はじまりをありがとうございます。