KEIKO KOMA Webサロン

新しい目覚め


今日の三鷹でのコンサート第一部メッセージ「流れ」

「流れ」と聞いて何を想定されるでしょう。例えば、「水の流れ」「時の流れ」という云い方があります。水が流れるように時が流れるということはあるのでしょうか。様々なところで「流れ」という言葉を使いますが、はたして、しっかり「流れ」という言葉を理解、了解して使われているのでしょうか。例えば「時の流れ」ということは本当はあるのでしょうか。おそらく錯誤にすぎません。この「流れ」の観念をいかようにしましょう。」

どのような意味でしょうかとわかりたい気持ちでお聴きしていましたが目に入る人が、船を漕いでいるようにガクガクと揺れ、あまりに隙だらけの寝方が気に障ってならず、目を閉じても負のエネルギーを発している状態が、気になってならずにどのように自分を抑えても抑えられませんでした。目の前で渾身の演奏をされておられる先生のお姿を見、その音のエネルギーを感じていると、寝ている状態は別次元のことと見えます。ここ最近のコンサートにて先生は戦に勝つ生き方を表現してくださっていると感じています。私にとってコンサートは戦に行く気構えとなりました。そのように考え、備えていくと先生のコンサートはまさに生命を賭けた戦に勝つあり方を学び、身につけていけるかけがえのない経験をさせていただきます。生きる姿勢もコンサートに臨む姿勢もまるで変わります。まさに生命賭けとなります。昨日は、この戦を共にしないのですか、と心の中ではご参加されない多くの方々にお声をかけていました。高句麗時代は普段は畑を耕している人が王が動くと同時に鍬を置き、何もかも投げ出し、王と共に戦に出たと聞いています。この度の戦は失礼しますとの言い訳などできようがありません。コンサートを戦に例えると、一人一人のあり方がよく見えるのです。今日も目の前で生命賭け戦っておられる先生の演奏をお聴き、寝てしまうというのは戦では死ぬよりない生き方を普段からしていると見え、生命かけ運命を解放していただいているのにと怒りまで湧いてしまいました。スタッフには寝るなら出ていくようにと注意しました。先生に前線にて戦っていただき、自分は隅で寝ているとはとんでもないことと感じてならなかったのです。この自分の怒りはどこから来るのか、と随分考えました。が、考えている自分にも腹が立ち、ますます抑えようがなくなります。突然、子供の頃に癇癪持ちであったので、母に「虫切り」に連れて行かれていたことを思い出しました。手がつけれないほど酷かったとは自分でも覚えているのです。苦しくて苦しくて叫んだり暴れるよりないほどに苦しかったことを覚えています。先生にお会いした時、切らなければよかったのに、とおっしゃっていただき、切らなかったらどうなっていたのかと考えました。切らなかったら今日の続きとなるとふと感じ、お腹の底にあるものすごいエネルギーを感じ、このエネルギーが表に現る時に何になっていくのかと想像しました。先生の音に血が騒いでならず、じっと椅子に座っていることも大変でした。一部の最後には頭の覆いや輪っか、黒い地面のような覆っているものが解かれ、頭のど真ん中に次元を超えた光が現れました。「神」と表現する光でした。その前には紫の光の鳥が天空を飛ぶ光景が見えました。見たこともない例えようもない美しい光の鳥が見えました。「神」も光の鳥もこれ以上ないと感じる美しい光と見えました。この意味をわかりたく第2部に臨みました。

「呪縛のようにして。。。」

「第一部で云ったように「時の流れ」というわかったような、わからないような巨大な観念が呪縛と言わずして何と言いましょう。コロナ禍であり、呪縛のオンパレードのように見えますが、どうでしょう。「時の流れ」という、2000年以上も人を呪縛してきた観念があります。根源的ともいっていいようなこのような呪縛の観念から解放し他の様々な呪縛から一時でも解放して、新たな人生をお考えになってみてはいかがでしょう。」

第一部の時から「時の流れ」をずっと考えていました。対象化して見ていると闇に覆われた大地が見え、全てを闇に葬るように見えてくるのです。先生が2000年以上も人を呪縛してきた観念とおっしゃる意味をわかりたいと望みます。呪縛のオンパレードという表現もありましたが、今朝経験したことを考えました。昨夜は眠れぬ夜でした。私は夜のうちに霊界や目に見えない世界に触れ、あの世かこの世かわからない、なんとも表現しがい感覚が肌に触れるようにし朝を迎えることが嫌でたまりません。今朝も霊界に触れているような状態でした。身も重く、なんとかしようとしました。昨日のコンサートで背筋を伸ばす姿勢であった時に大宇宙の光の柱と立つ生命であった経験がこれからの生きる姿勢と経験しましたので、背筋をまっすぐにし動きました。みるみる暗さも重さもなくなり、気づけば昨年の緊急非常事態の時より首を押させつけられている重みや苦しみが解けてきたのです。その前の年に、東日本大震災が起こった日に前夜から首も手も痛み、眠れぬままに一夜を過ごし、やっとのおもいで身支度をし、結工房へ行ったものの、とても耐えられるような痛みではなく、震災が起こった時間に黙祷を捧げた後に近くの整形外科に駆け込んだのです。その時加齢という言葉をはじめて聞きました。最初は何を言っているのかわかりませんでした。翌日黄泉の国で先生のコンサートが開催され、たくさんの死霊を身に受けて苦しかったことに気づき、コンサートですっかり解放され、痛みがとれました。目に見えないものを身に受けるととても重いです。が,加齢という言葉を聞いてしまってからは医師に言われる加齢という言葉が私には縛りとなっていると今日のコンサートで気づきました。そして何より、神が最大の呪縛であったと気づきました。一部で見えた神は、観念であったとわかりました。先生の演奏をお聴きしこれ以上の迫力、渾身の演奏はないと感動し、音の重さ、深さ、厚みは神と表現したいエネルギーです。それ以外の言葉があるのでしょうかと何度も考えますが、神と表現するよりないのです。アンコールの大陸的な神々しいアリラン的な演奏になると。感極まり、深く感動します。府中で「朱蒙魂」の演奏をしていただいた時、戦いに勝つとは神と一体であるよりないと見え、わかりました。神は見えるものではなく、感じるものでもなく、一体となっている状態を経験しました。いつも見える光景は王が天空を飛ぶように馬と一体となり弓を射る姿です。神と一体と見えます。神は見えることはないのです。観念によって見ていることに気づけましたことは私にとり長年の呪縛からの解放でした。今日の様々な経験を書きつくせませんが、一瞬一瞬は多くを学び、目が覚めました。呪縛とか観念から解放される時は、目が覚める発見があります。わからないことは考え続けていると、コンサートにて経験している生命は突然紐解ける瞬間がありますので、考え続けます。とてつもないコンサートでした。深く厚い音が幾重にも重なり、魂と魂が共鳴、共振する音と聴こえたり、神々も融合する音に聴こえます。一度聴いたなら、忘れられるものではありません。生命の内に在り続け、育まれていくように音が広がり、新しい生命となるのです。ありがとうございます。

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