アゼルバイジャン高句麗伝説上映会
家を出て上映会に向かう道すがら、出会う現象から、今までと同じに生きていたら生命はないのだな、と感じる出来事に遭遇し、これからの生き方を考えました。
アゼルバイジャン高句麗伝説は、先生が「新しい歴史のプレゼント」と仰ったこと、その翌年2011年3月11日に東北大震災が起こり、アゼルバイジャン高句麗伝説においてお聞きした、「自然とひとつに生きる時間」という言葉を、地球環境が新しく変わり、いだきで生きるあり方がいよいよ表に現れる時となったことを感じます。
自分がその言葉をどれだけ深く理解しているのか、簡単に聞き流し素通りさせ、前と同じに生きてしまいがちな頭をこの度直視し、今ここで問います。
かつてもこれからも表れないと感じる人類救済のはたらきをされる先生の存在を、上映会での空間から、高麗さんの詩や表情、自らの経験から感じますが、深めたい気持ちです。
忘れもしない、昨年の10月の終わり頃経験したコンサートで先生の存在を感じたときの真がふいに蘇ってきました。おおいなる存在の現れる空間は頭を別次元に一掃させ、今までのあり方は突風のような渦巻く空間の中でそれはもう吹き飛ばされそうでした。ただ事ではなかったのです。私はあのときの経験は忘れてはいけないのです。
アゼルバイジャン高句麗伝説上映会では、海の中を感じ、ずっと海に沈んだ魂の蘇りをされていたのだと感じ、様々な楽器の音による演奏は音響のよい高麗屋の空間に響き、特にエチオピアの映像での笛の音は何故か呼ばれていると感じる高次元に引き上げて下さりたまらなく愛おしい音でありました。全てを内面で隅々まで感じたい気持ちで集中しました。家で聴くようなものではなく、高麗さん、映像の中の先生も空間におられ、皆さまとともに大変豊かな時を過ごさせて頂くばかりか、生き方糺されるといった生命救われる機会でありましたことに、心から感謝しています。
世の中は荒れており、よからぬものを被る機会もそこら中にある中、常におおいなる存在と繋がり生きることより、生きていく術はないことを分かるよい機会を与えられ、喝を入れて下さったと感謝します。
出会えた命、今も生かされてきた命、何をするために生まれたのかを知る命、これからも元気に幸せに生きることで、先生と高麗さんの役に立っていけるよう、身も心も糺す時を知ります。
ありがとうございます。