京都応用コース存在論を経て
先月の京都応用コースで、人が生活をしていないか、生活が何かわからないとお聞きしてから約一月、自分自身の中に生活しているという感覚がまるでないことを考え、自分の日々を見直したり自分の家族関係や人との関係を考えて過ごしていました。今日の講座でも生活のこと、ハイデガーの言う気遣いをお聞きし、家族が経済の中に組み込まれ、関係といってもカネやモノの介在した関係で、生活がないということの意味が深まりました。好きな人ができたら、その人のために何ができるかを考え自分を変えていくその中で自分の不甲斐なさに気づいていく、という先生のお言葉は今日はごく当然のことのように聞こえよくわかり、しかし胸に残る、そのことに気づいた時には同時に自分は大事にされていないことに気がつき、もうそこに関係はないという悔しいというかやりきれない気持ちが胸に溢れ、そしてこうしてまた先生に全て受け容れて頂いているということが言葉にならない涙となってしまいました。父は自分のことを大事にしてくれていることをわかったのも最近で、それは大事にされていないことを分かると同時に大事にされていることをわかるという状態で、全く次元の違うところで自分は人と会い、人と関係してきたことを痛感しました。自分を含め一人一人の生命を究極的に大事にしてくださっている先生とお会いできていることのその在り方をベースにすればわかるはずのことがどこか先生との関係は別物となり分からなかった自分が情けなく愚かに感じます。私との対話で先生は最後に沖先生の言葉として、40年世話になったらその恩を40年かけて返すことをいだきしん先生に対して仰ったことをお話しくださいました。私自身も、自分の生命、また家族、親族の生命や先祖まで助けていただいて、また自分がどれだけ頭がおかしくても捨てずに存在を全面的に受け容れ大事にしてくださっていて、、そのご恩を返すんだと、、大事にされたらその分、それ以上に人を大事に生きていくんだと、それこそ自分自身のあまりの不甲斐なさに胸が詰まる思いで必死に涙を堪え下を向くよりありませんでした。モノやカネに翻弄され一番大事な生命に傷がつくという愚かな人生を生きているものだと自分自身を思います。自分自身のあり様で人と出会っているわけで、自分自身が変わることで新たな在り方を見つけ身につけ生きていくよりないと考えます。人間は大事にされれば素晴らしく輝いてくるとお聞きし希望を感じ、真逆の世から脱却し未来、将来を築きたいと感じます。ありがとうございます。