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あたたかい暮らしを


「心ある温かい暮らし」という要が平気で外れてしまう世の中だということが、むしろ昨日の杉並でしていただいたコンサートの後のほうが浮き彫りになってわかってきました。コンサート前は自分も要が外れた側と一体化していてそれが当然だったので、どれだけ恐ろしいことかにあまり気付いていなかったのだと思います。昨日コンサート前、あるネット上で、みんながそれぞれの意見をちゃんと出し合っている中に自分もいました。それぞれが個性あり、その中で、自分も個性があり、小3の記憶に残る学校の学級会の話し合いでは、一つの意見から外れるような人がいればその他全員で叩くようなやり方だったので、このそれぞれがそれぞれで良い感覚が嬉しすぎてニヤニヤとしてしまい、また先へ進みずらい気持ちとなりました。幸せには早く慣れていかないと次々変化していけません。必要な苦労はあって当然だけど、しなくてよい苦労は、この先の人たちはしなくてすむ社会になったら、無駄に立ち止まらずみんなすくすくと自己実現できます。

今は世相では騒がれていますが、こうして人が分断されていくだけの種が、過去からずっとずっと蒔かれてきたと思います。人と人とが心繋がり生きるという当たり前のことが、ふっとした隙に潤いのない折れた木の枝のパサパサした先で叩かれ傷つけられ、乾燥して、出来なくなり、気付くと倒れこんでいる感じ。それが私はいだきしん先生のところへ行っているので、そこさえ外さなければなんとかなりますが、そうでない方も空間通じて何かしらのぬくもりと触れれば立ち直れるでしょうが、立ち直れないまま倒れてしまう方もおられるのだと感じました。

コンサートでは弦がバンッと切れて飛び出し、まるでロックコンサートへ参加したように興奮しました。それだけ先生にかかるエネルギー、表現されることのエネルギーが大きいのもすごいし、そう考えると普段弦も切れずに堪えているピアノや調律なさる調律師さんがすごいんだなとも改めてわかりました。最初片手だけで演奏されていた感じも目を閉じて聴いているとそうとは聞こえない轟音でした。

書き込みをしないでいたら、なんとも乾燥した空気にやられそうになってしまいました。昨日とはまた違う今日となっています。書き込みをせず倒れこみそうになりながら改めて、温もりある世界を創り出す側であることは、イコール生きることであると自覚しました。こちらへの書き込みはある意味で長年の習慣となって続けさせていただいているところがありましたが、あらためて平和な社会をつくるための良い習慣としていけるように工夫をと考えます。自分で良いこととしてやっていることって疎外されていってたりするんで難しいです。

話が変わるのですが、自分が子育てをしていないということがありますが、どうも知り合いの田舎の同年代や年下のお母さんたちと、話も気も全く合いません。こんなことで良いのかな?と少し気にかかる何かがあります。子育てをしているお母さんは応援すべき存在で、当然誰も悪く言わないので、自分の子が良ければそれで良いという感じになっている顔つき目つきが刺さって痛いです。自分ももしお母さんになったら失礼なんですがあんな感じになるのかと思うとなんか嫌ですね。やったことなくて大変さがわからないからそう感じるんでしょうか。そういうお母さんの子らもみんな比較的可愛くない顔つき??だわ??と半分冗談で、思いましたが、ひとりだけ親に似ずに天使のように美しい少女がいました。

ここまで読んで下さりありがとうございました。

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