KEIKO KOMA Webサロン

新年


大変深くそして尊い、年末から三ヶ日までの日々です。その一日一日の経験があまりに深く膨大なことで、それがあっという間にとんでもないほどの量になってしまいます。ひとつの書き込みで果たして表現し切れるのかという具合ですが、今日はそれらの経験を一気に表現し駆け抜けようと言う気持ちです。
昨年12月の連続コンサートの経験といったら、今のところ今日の経験にまで続く為に全ての経験があったのだという、それらはひとつの流れのある出来事のようにあります。しかしきっと、これはこれからの人生のそして今までの人生の、どの瞬間を取ってみても、全ては壮大な道を歩んでいるという事実になりそうです。つまらない意思や決められたストーリーがないのに、この人生の展開ということに、今の時代にいだきが在って生きられる人生の不思議な事と楽しいことを噛みしめる今です。
12月のコンサートから東北での年内最後の応用コースと存在論まで参加出来、2020年の素晴らしい経験は終わったかのような気持ちでいた12月29日は、家にいましたが、自らの今までの人生と、そして今この時までいのちを繋いできてくださった方々のその在り方に触れました。そして『こういう風に生きていいんだ』という、自分が全開という在り方、その生き方を知りました。しかしその日、そこに辿りつくまでの途中経過で、あまりに恐ろしい不気味な世界を生きていた自らの幼い頃の人生をまざまざとみるようでした。今になって、幼い時の自分に何が起こっていてどういう世界を生きていたのかをその頃よりもよくわかる自分になっていました。今までの人生、私が遠慮だと思って生きて来たことは、自らも生きられない生き方の塊でしかなかったのです。遠慮とは…世間や社会の空気にまで全てに遠慮して、世間と調和して生きていこうという、世間というその実態の曖昧なものに対してへの遠慮です。そして私がこのような生き方を身体にも心にも芯まで根ざして生きてきたのだな、と今までは到底考えもしなかったことを知りました。それから、私は調和という言葉を大きく間違えて生きて来たことも知りました。なぜ、現に自分の心がひとつ死んでいるのに、それで調和ができているなどと思ってきたのでしょう…。高麗さんの講演会でお聴きしてきたのは、「あらゆる命が生きてこそ調和なのだよ」という先生のお言葉でした。そのことはずっと私の命のどこかに輝き続けていた事のひとつだと想います。そして12月の連続のコンサートと講座で経験したことが極めつけのように、私の存在の在り処まで辿りつけた所以です。どこにいても、なんの催しがあるとかないとかではなく経験出来ることもあるのだなと感動していましたが、自らの内の今までは殺すように生きてきたことを今度は生かすことに焦点を当てはじめるとどこかこの社会と分離、分裂してゆくような難しさを覚えていました。

年が明け、元旦は八坂で搗きたての力餅ぜんざいをいただき、本当に美味しくて力を得ました。2日と3日は先生の応用コースと存在論そして、高麗さんのビデオ講演会から即興詩の生まれる場面まで参加しました。応用コースと存在論に居ると、自分のことから日本の様々なことの、その解決に至る原因だとは想像もしない日本の憲法についてのお話をお聴きして未来は拓かれました。応用コースの時には憲法と自分との関係があまりピンときていませんでしたが、その後のビデオ講演会をお聴きしていると、自分の頭に「憲法」という縛りのようなものが、ご祝儀袋の水引のようにきちっと結ばれているようなのをみたような気がして、当たり前として生きている今の自らの頭の苦しみを自覚しました。翌日の存在論では、【ギリシャ語でプシュケーといわれる、内面にある魂(霊とか心ともいう)】と、【憲法などの社会環境などの、外的環境にさらされている身体(肉体)】のどちらもが活きている状態を学びました。そのどちらもがどちらの犠牲にもならず、生きられる時なのだと学びました。「魂と肉体と同時に愛し合える」ということは、12月のコンサートを経験したときに、魂と肉体はまさにどちらかが立とうとして、せめぎ合っているような状態を自分の身体の中に認めていましたので、今日のお話をお聴きした時に素晴らしく希望ある、人間と人間の未来ある在り方を見るようでした。昨年末から私が難しいと感じていた、自分で今まで殺すようにしていた私の内面をも生きてゆける方向については、存在論までをお聴きでき、何も難しくなく感じている今です。
存在論の次のビデオ講演会では、高句麗のはじまりの時から、今の日本に生まれる光を見出して続いている流れが今にまさに集結していることをお聴きすると、計り知れぬほどの世で生まれ合わせ生きているというその真が、新になった頭の中を潔い風のように通ります。私は遠慮しているのだという思い込みで、真に大切な事と自らの間にをも、隔たりを作っていたのだと想います。それは遠慮でもなんでもなく、ただあまりに永い時の間にできた塊を壊すことが恐かったのだと思えます。この世のあらゆること、その全てを超えた時、時空をも超えたその先に、現る真の人生がある始まりの今を生きています。ありがとうございます。

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