5/8の経験
5/8はビデオ講演会、ルーマニア高句麗伝説上映会、モスクワ高句麗伝説上映会に参加させていただきました。
ルーマニアなんてどこにあるかもよく知らないくらいでしたが今日の上映会では若光王様の詩がいつもより胸に迫りました。全然違う感じがしました。繊細で地の底から一筋強く強く絞り出し光を貫くようなお声、慟哭。なぜかいつもより共感できる状態が不思議でした。高麗さんのお顔も、その国によって変わられて、ルーマニアのときのお顔は『好みだな』と感じてしまいました。モスクワはいだき講座2日目を受講した時と似た感じがしました。心臓が飛び出しそうで痛くもなり、存在を疑ったり消そうとしても何度も何度も体が『存在を消すな』と、『ここにいる』と叫びます。モスクワは自分の意識と体のズレを感じる間もなくひとつになる経験をしました。
5/13の催しが中止・変更になったことについて、正しいことをしているぶって、人の生きる源を断つものに怒りを感じました。
サロンでは自分の声がすごく嫌いだからしゃべりたくないとか思いました。モゴモゴ言って田舎くさいのが目に浮かび何もしていないのに自己イメージだけで自分を本当に嫌だなと思いました。訛るのも嫌だし訛らないのも作り物のようで嫌だなと。
あとは、みんなそれぞれの感じ方が本当に違うので、自分の感じ方がほかの方と違うと孤独を感じること、逆に自分の開いた口がもしかしたらほかの方へ孤独を感じさせてしまうのではないか、という懸念が、口を塞ぎます。
逃げなのかもしれないと受け止めて必要なこと(本音)だけを出来るだけ聞こえやすく話せるよう、変われるようにしていきます。
喋ってもろくなことはないんじゃないか、と思い黙っていることが、高麗さんだけを戦わせて自分は馬車に乗って観覧していることになるのでしょうか?一緒に戦っているなんて思ったことはもちろんありません。それを自覚するだけではいけないのだろうかと自分に問います。本当は喋りたいんですが、喋ったほうが良いなんていう、そんな自分に都合の良い話があるのでしょうか。すごく怒鳴られたこともあるし、声は出さない方が良いのではないだろうか。すごく怒られたり場を悪くしたりする可能性があったとしても、そうしたくなければどうすれば良いかを日々考えてまで、表現を努めるべきなのだろうか。高麗さんのお話を、自分に都合良く解釈し受け止めてはいないだろうか。とくに苦労なく共感しあい和気あいあいとできる方々もいるんだから、わたしはやっぱりただ単に高麗さんの周りにいることが向いていないのではないだろうか。向いていないことは、やらないほうが良いのでは・・・。
そのまま話して伝わらない。『みんなっぽい』ことを話してシーンと沈黙になり、嫌なお顔をなさるのを見る。怒鳴られる以外にもどれだけこういうことがあっただろうか。それでも工夫して本音を表現し続けて成長していくことが気持ちを生かすことになるのだろうか。自分が何を言ってもシーンとなったり嫌なお顔をされるのに他の人はスルッと話したことが笑顔で受け入れられる。そんな状況が目に浮かび、孤独で、ますます口をへの字に結びますが、この拗ねも、もしかして逃げでしょうか。嫌な顔をされたくなければ、されないように努めて工夫して変わるのが逃げずに向き合うことなのでしょうか。ここは私の場ではない、偉い、高麗さんの近くにいらっしゃる、素晴らしいことを言える人達の場所で、自分は、本音があるので、誰からも歓迎されていないけれど、むしろどちらかというと『異物は出て行け』と思われているけど、やむなく参加させていただいている、申し訳ない、おとなしく邪魔にならないよう場を共有させていただいて、終わったらさっさと帰り一人で表現する、それが、でしゃばらない、お行儀が良いということだ。しかも高麗さんは、そうは見えなくても、わたしには到底わからないようなご事情でお体が苦しいことがおありなんだ。あまり関わって差し上げないことが配慮だ。自分だったら苦しいとき、わかる人ならさておき、わからない人には、ほんと見ないふりをして放っておいてほしいから。そんなふうに思うことも逃げでしょうか。『ご迷惑をかけるので』が逃げだとしたら、そうなります。喋るというのは、邪魔になるときは本当に邪魔になるので、難しい。研ぎ澄まして極力がんばるよりないです。喋れないわけではないけれど、喋ってどうなるんだろう?わからないけど、本音という宝を持ち腐れないように。
節目となる聖なる1日を、ありがとうごさいました。