善とは
今日は書き込むことをやめようと思っていましたが、自然に書き込みの画面を開いています。相変わらず数千円の事で自由が利かず、今までどうして全国各地のコンサートに身を運んでいたのか。。。今まで運がよく、目途のないままに軽挙妄動であったとしても何とかなってきた過去の経験があります。さまざまな助けもあり、魂が導かれたとしか思えないのですが、今年になってからは何かが違っています。一見の良いことのように見えていたことにごまかしや甘えが通用しなくなっていると感じます。
昨日雲一つない快晴の熱い一日でしたが、遠くに見える入道雲のほか何もなく、府中コンサートの時間は、「始まり」のCDをかけていました。先生の音はいつも今いまの音です。聞いているうちに過去の仕事で自分のかかわった方々のこと、今も関係がある様々な人々が次々と浮かんできます。自分は誰も、飼っていた犬すらも幸せどころか犠牲にしてきたのではないがという後悔の気持ち。。終わって普段は見ないテレビで「大地の子」をしていました。山崎豊子さんと胡耀邦の関係、天安門事件のきっかけになったこと。目が離せなくなっていました。
自分が余りに知らなさ過ぎたことに、戦争、国家のことも、当たり前に食べ物があるという幸せもなにもかも。。。
小さなスマホのそれも使いこなしてはいない画面から得たちっぽけな情報も皆自分勝手でした。
魂が揺れて当たり前です。起きた瞬間はこうはしていられないとすぐにメールしようと行動することをしようとするのですが、仕事の時間に合わせたりしているうちにまたそれに嵌ってしまいます。
今日も三鷹で風が吹きます。今の自分を噛みしめて空間でご一緒します。
昨日の月は今まで以上に透明で、満月に向かっていました。小さなスマホから目を上げて仰ぐことができる幸せ。いつも希望をありがとうございます。