KEIKO KOMA Webサロン

12月21日


ある年から12月21日が人生節目の日となっていました。狛江の「高句麗伝説」開催日を知った時、途轍もない未来を感じ、心待ちにしていました。まさか母の急逝を乗り越える、耐え難き時間なるとは思いませんでしたが、一歩一歩必死で歩をあゆむとそこには、高麗恵子さんを中心とし生きる仲間がいてくださり「高句麗のぬくもり」あたたかく、互いの涙と瞳が無言で明るい未来を一瞬で語ります。支え合って生きれる「場」をとことん創造して下さり、先生、高麗様へ感謝の気持ちが絶えません。
どんなに分かり合えずとも大切で、いつまでも生きて欲しい母でした。いだき講座を受講させていただいた時は還暦を過ぎていましたが、それまで決った範囲の行動よりなかった母が、突然海外旅行へ頻繁に行くようになり、気が付けば、いくつも賞を取るアマチュア写真家となり、先生と呼ばれていました。目も耳も私よりもよく、皺は私よりも少なく、父が亡くなり88歳で人生初の独り暮らしとなって以降は毎日の電話を欠かさない2年9ヶ月でした。いだき講座にて、先祖代々や親から受け継がれた「運命」から完全に解放され「真の自分」を表し生きていけるという、奇跡の恩恵にあずかれる時代に生きています。母からのマイナス因子を取り除いていただいた人生を証明したい気持ちで生きようとする時、生き方の癖に遭遇します。自分一人ではなかなか気付けないので、真の活動を通し、一番奥にある「本音」を表そうと努めるなか、高麗恵子さんやいだきしん先生、仲間達が指摘して下さり、お客様から断られ、事業を営むことで楽しく乗り越え生きてこられました。自分の失態を母のせいにする時はIDAKIを忘れています。「疎外」に気が付けるようになってからはすべてのことがとても楽になりました。
4歳目前で別々の処で生きることになった子に17年ぶりに再会し、そおっと一枚一枚薄皮を剥がすように接した2年間で安堵した事は、私が自分で嫌悪する最も嫌な所を全く受け継いでいなかった事でした。胎児4ヶ月の時「僕とママを助けて下さい」と先生に訴えました。予感はありましたが、僕である事を正確に認識していただき、此の世で初めて言葉を交わせた方が いだきしん先生とは、なんと有難いことでしょう。先生の楽器スタッフをさせていただいていた元夫はタンザニアコンサートの舞台に乗っていました。まさか其の後わずか7年で此の世を去るなどと思ってもいませんでしたが幾つかの警鐘に気づいてくれなかったことが残念です。タンザニアコンサートの帰国後、あまりに素晴らしい経験をさせていただき2週間、何もする気がなくなり仕事を休んでいたと子から聞いた時、未来型で生きるか裏切り者に成るかの分かれ目であったと理解しました。生き方の相違に気が付きお別れしておりました。当時から色々な事を囁かれておりましたがどれも不正確で、呆れる話も多くありました。今でも真相は自分よりわからないと考えます。中学生の頃より知る人でしたし元気に生きてしっかり務めて欲しい気持ちがありました。間違った選択を耳にするとき不思議と感じていました。初期の頃より、何故か自分はIDAKIの活動を盛んにしている人が居なくなる予兆に遭遇する事が多く、文字通り犬の臭覚が働き、気に病む事があります。それは思いの種と最近気が付きました。今、その種がある以上、勝手に育ってしまうことがあると理解し、最近は種に気づくと食べてしまうようにしています。思いは想念となり残る事を母の死を通し感じています。昨日の状態では、母はしばらく先生の事はわからないのかなとあきらめておりましたが、今朝母に対面すると神々しく安らかな顔で、先生の事をわかったのだといのちでわかりました。思わず、生きているうちにわかって欲しかったと号泣してしまいました。これから魂共に生きられると感謝の気持ちでいっぱいです。
狛江「高句麗伝説」を経験させていただき、まるで違う星に降り立ったかのようです。今日もお経を真剣に唱えてみようと心しています。これまで小馬鹿にしていたお経ですが、素晴らしく唱えようとするとなかなか難しいものだとおそれいりました。自分の音を聞くと世俗を超えられていない事がまるわかりで苦笑しました。
瞬間瞬間さまざま学び「新高句麗人」とし生きていけるよう精進します。
昨日はチケット1枚より売れませんでしたが、メールを頂いた時はうれしかったです。

思いもかけず、たくさんのお花をお贈りいただきまして心より、厚く感謝申し上げております。皆様のお気持ちにとても癒されます。何事も「美しく」解決し進むこと。大切な事を覚えていける日々を、真にありがとうございます。

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音色
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懐かしい風景
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東京高麗屋にて