KEIKO KOMA Webサロン

2020年7月を迎え


熊本、大雨の地域の方、安全をお祈りしてます。

 

最近の出来事からです。講座を受講して講座に通い続けてきた人生は、そうでない人とは違うことをよくわからないと、いけないと思いました。とはいえ、講座を受講して講座に通い続けてきても、人それぞれ違うので、単に私は他人のことがわからず他人を思いやることが出来なかった。いだきに無理やり誘ったとして人から嫌われてしまったこと、講座を受けるといっても結局は受けない方と接していること、人のことがわからず傲慢だからこのようになると身にしみつつ、なんでこんなにみんなそれぞれ違うんだろうという悲しさ。人間はみな同じだと教育を受けてきたので悲しいのです、話が違う、と。そして私のご機嫌を損ねないために、地元の人々が気を遣ってくれていたことをわからず、すべてを額面のまま受け止めてきた情けなさ。わたしはそんなに怖いのか、と悲しくもなると同時に。「この人を敵にまわしたくない(好感から、面倒だから、どちらの理由も含めて)」と感じさせる何かは分量多めにあるらしく、それは比較的幼いころからです。その裏にあるものなんて読めなかったけど、みんなが持っているもの、見えている世界はすべて同じでないことだけはよくわかったのです。

人との距離感、線引き、自律。

本音でいえばいだきしかないと感じています。でも当然、世の中の全員が講座を受けて、その後いだきに頻繁に通うというわけではなく、それは、それぞれが選択することなので、そこが、そんな「みんな」と私は異なるんだと立場を認識、自覚をちゃんとしないといけないんだと頭がフラフラします。みんな当然いだきを知ったらいだきに通うと思っていたし、そうではなくて私が「いだきへ頻繁に行っている特殊な人」という扱いと地元でなるのは想像していなかったです。かつて受講されて現在はいらしていない方でも、苦手そうに目を逸らしていかれた経験が6、7年前にあり、きっと相手の立場もわからずにグイグイ「いだきは素晴らしい」などと成り切って言う私を嫌だったと思うのですが、いだきは素晴らしいんだけども、「いだきを素晴らしい」と敢えて表現すると邪魔になることもある。なぜ「いだきは素晴らしい」と言ってしまうかというと、本当に素晴らしいからではありますが、「いだきについて表現しないといけない」という、からっぽな心に持て余す罪悪感が引き寄せるスタンガンの雷、すなわち勝手な受け止め方がありました。いだきに行っていることを隠さずに表現しないと人間ではない、そんな受け止め方が、もともとある罪悪感に引き付けられ、大きくなり、相手の姿や状況を見て反応する、人間として当たり前の余裕や視野を奪い去る。罪悪感を持っているという自覚もなく、自分の言葉も使えず、ひたすら「なんだか、自分は、ダメなんだ」と思っている。根本に罪悪感しかないことも気づけば変わっていきます。しかし自分は変わったとしても、人はみんな違うのでまたここで一つ問題があり、それは、そのまま変われない人もたくさんいるんだということです。ちゃんとわかって、「自分だけは変わったから最高!」というふうに、傲慢に生きていくやさしくない在り方だけはやめようと考えます。相手がどう感じるかはコントロールできませんが、極力取り巻く全世界に罪悪感や劣等感、競争意識、などを感じさせたり煽ったりしない世界を構築していくことを大切にと考えます。

いだきに来れない人に無理やり声をかけて苦しめるのではなくて、ちゃんと来ることができる方と出会えるようにまた問題を整理し、次へ向かいます。人の気持ちに配慮できないところが自分のダメなところなので、無理やり相手の立場になろうとして、逆に線引きが出来なくなりわけがわからなくゴチャゴチャになってしまったことも問題の一つと感じています。人との付き合いかたがわからないなんて幼稚で情けないですが、、、仕方がないので素直に受け止めます。同じく数年前に、「いだきは良いけど、いだきに来ている人は変」と言って来なくなった女性と、それを言わせた私がいます。変で本当に申し訳ありません。その「変」というのは、心がからっぽなところに罪悪感の重しだけがのしかかり、心豊かな判断や選択が出来ない私の内面を緻密に言い表した言葉でした。

読んで下さってありがとうございます。

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三鷹市芸術文化センター 風のホールにて