麗花から高句麗伝説へ
開演を前に静まりかえる客席後方にいて、木漏れ日のような柔らかなライトに照らされている舞台上の椅子を見たとき。遠い日の記憶が蘇るかのような不思議な時の流れの中にすっぽりと身はありました。まだ誰も座っていない椅子、木漏れ日のようなライトが照らす空っぽの椅子を、以前にもこのように眺め、ここに座る方を待っていたことがありました。2004年国創り全国縦断高句麗伝説開催後に生まれた高麗さんの「詩と語り」という催しにて、初の開演を待っていた時のことです。詩集「麗花」を生のお声で詠んでくださり人生を語られるその衝撃にもまして、まだ誰も座っていない椅子に柔らかなライトが落ちている・・・その情景に、これほどまで胸が動くことへの衝撃に驚き、何かが始まったあの日。本日、場内静まりかえっている開演直前に舞台上の椅子を目にした時、唐突にあの日の衝撃が蘇りました。そしてふと「麗花から高句麗伝説へ」・・・と胸でつぶやいた瞬間、舞台上に高麗さんといだきしん先生が登場されたのです。
あらわされる世界の高次なこと豊かなこと・・・。このように生きられるのが真の人間であるなら、自分をふくめ今生きているのは一体なんと呼べばよい生き物なのでしょうか。作られたロマンは壊れるけれど、人間とは本来どのような存在か、真理をわかり真っ当になっていける道は真のロマンに満ちていると感じます。高句麗伝説は、まさに歴史の大ロマン・・・と感動よりありません。そしてもちろん、高句麗伝説への道のりには詩集「麗花」に記された歩みがあるのです。「詩と語り」も、そして高句麗伝説も、初期の頃は高麗さんが既に書かれた詩を生のお声で詠まれ、催されていました。即興詩がお聴きしたいと申し上げた時、即興は聴衆の人に影響されること、即興詩が詠める時には世界は変わっているとのお話をくださいました。その時が訪れるのを待ちながら、どれほど多くの舞台を経験させて戴いたことでしょう。今や、すべてが即興の表現により、なされている舞台なのです。それも、即興と表されるその中身、あり方があまりに別格です。高句麗伝説という舞台にて、いだきしん先生が演奏下さる中で高麗さんがどのように表現されているのか深く語って下さるようになり、今更のようにこの1時間半でなされていることのものすごさに圧倒されます。これほどの場に身を置けるなど普通の巡りではないことを深く受けとめます。
連綿とつながる生命の流れ、魂の旅路。終演後お帰りになる皆様の、出会えた今に潤むお顔は、昨夜見たお月様のお顔のようでした。きっと自分の顔もそうだったのだと想います。そして、明日へと・・・。日々日々新しい経験に生命丸ごと変化変容できる旅路は、いつも今が始まりです。心よりありがとうございます。